20180922_パワハラする側の心理

 

<追記事項_20210807>

 

① たとえ他者(相手)に帰責すべき客観的な理由が十分にある場合であっても、他者(相手)を責めよう・咎めようとする言葉に代えて、ひとこと「どう?(大丈夫?)」という

気遣いや気配りのひと言をかけてみてはどうでしょう?

 

② パワハラと注意指導の分かれ目については別稿のとおりです。パワハラに無く、注意指導にあるべきものは…やはり「其れ、恕(じょ)か」と言う以外にないかも知れません。相手を赦し、慈しみ、育むこころです。ファクトとロジックの根っことその先にあるこころ…

 

<追記事項_20210303>

 

 パワハラ問題を考えるときに「他者と働く_分かり合えなさからはじめる組織論」という書籍はイチオシです。「Dialogue & Narrative」という副題の通り、「分かり合えなさから出直す(相手のナラティブと対話する)」ことが、パワハラ防止の最大のポイントです。

https://books.rakuten.co.jp/rb/16060423/

 

<追記事項_20210227>

 

 いわゆる「発達障害」の問題を正しく理解して・対応することも、パワハラ防止の支えになるはずです。これも「相手のナラティブを理解し、お互いの分かり合えなさから出直して対話する」ことです。

 働き方にかかわる「発達障害」 - 採用から退職までの人事マネジメント (hrms-jp.com)

 

<追記事項_20210123>

 

 先日「他を咎めようとする前に、他を咎めようとする自らを先ず咎めよ」という意味の言葉を見かけました。よくある日めくりカレンダーに載っている「箴言」のひとつにしかすぎませんが、百の論説よりひとつの信念と行動のほうが貴重だと思います。

 

<追記事項_20201016>

 

  日本語で「それは違う」というとき、それを「異なる」という意味で言っているのか「間違い」という意味で言っているのかが判然とせず、誤解を受けたり与えたりしてしまうことがときどきあります。

 

 両者間の曖昧さは、おそらく英語文化では生じない(それぞれを意味する言葉自体が異なるから)だろうと思います。日本語でも「それは異なる」と言えば良いのかも知れませんがそれを「不自然」に感じるのは、日本的文化の特色のひとつなのかも知れません。

 

 しかし、差別もパワハラも、自他の「異なり」を相手や他者の「間違い」と見てしまう発想や思考の貧しさ(貧しさ、または苦しみや悩みの足りなさ)や、他者の「異なり」を否定して受容しない偏狭さに根差しているのかも知れません。

  

<追記事項_20190721>

 

 人間誰しも「自己」の「保全・肯定・尊厳」感を脅かされ・損なわれると知ると、怒りや憎しみの感情を禁じ得ないばかりか、「相手」の「保全・肯定・尊厳」を平然と脅かし、損なう言動や態度、場合によっては攻撃や復讐を選ぶのかも知れません。

 

 歴史的に観ても「正しい」ことほど人を迫害してきたことはありません。「正しい」ことは必ずしも「唯一・絶対」とは限らない。特にそれが単なる「自己保全・自己肯定・自己尊厳」の発露でしかない場合は、相手のそれを脅かし・損ねてしまうことさえある…

 

<追記事項_20201117>

 

 パワハラ(を繰り返す人)は一種の「依存症」に陥っているのではないでしょうか?

 

 <ICD-10>

 ☐ 対象に対する強烈な欲求、強迫感がある

 ☐ コントロールができない

 ☐ 禁断症状がある

 ☐ 頻度や量が増える

 ☐ それ以外の娯楽や楽しみを無視する

 ☐ 重大な問題があると分かっていても続けてしまう

 

 パワハラを行う場面での一種の「快感」を必ずしも否定することよりも、パワハラを行なわないことによる「快感」により多く気付き・導くことのほうがより有効な「解決」のひとつであるように思います。

 

<以下原文>

 

1.「パワハラ問題」は「働く人たち」の武器?

 

 パワハラが職場の労務問題になるケースが増えています。(データで見るパワハラ_厚労省)。もちろんパワハラそのものの件数が増えてきたわけではなく、パワハラが裁判にまでなる(パワハラ裁判例_厚労省)ケースが増えてきたということです。

 

 誤解を恐れず言えば、「上司の指揮命令に服して働く人たち」にとって「パワハラ問題」がひとつの有力な「武器」になってきている観があります。もちろん人事労務管理の課題は「パワハラ問題」を「武器」にしなくて良い職場作りですが…

 

2.「パワハラする側の心理」を考えてみる。

 

① 「パワハラ」する側の根強い「自己愛」

 

 「セクハラ」とは違って、「パワハラ」は「自分ではそれと気付き難い」点が特徴のひとつです。それは多くの「上司」が「指揮命令」や「指導育成」という「基本行為」そのものを「行うべきこと」=「正しいこと」として行なっているからです。

 

 また多くの「上司」は「自己肯定感(自分が正しい)」や「自己有能感(自分は出来る)」ということ(総じて言えば「自己愛」)を多かれ少なかれ自らの「励み」や「目標」にしながら今に至ったからです。

 

 そうした「自己愛(自己肯定感や自己有能感)」が何らかの理由(部下や部下との関係に起因する理由)で損なわれようとした場合に、「上司」がパワハラという「手段」を通じてそれを「満たそうとする」だけなのかも知れません。

 

(「パワハラをする上司」にとって「パワハラ」は、その「自己愛」の「確認」や「代償」、「不安」や「コンプレックス」の表明なのかも知れません。歴史上、「正義」が多くの人々を迫害してきたのと同じ「心理」なのかも知れません。)

 

② 「パワハラ」される側の根強い「自己愛」

 

 … ところが勿論、そうした「上司」に「指揮・命令」され「指導・育成」される側の「部下」も、強い「自己肯定感」や「自己有能感」(総じて「自己愛」)で「成り立っている」のは当然です。

 

 それは「部下」によっては「上司」以上に強烈な「自己愛」であって、これに気付かず、

またはこれを軽視し、これを損ねるような言動や態度をとる「上司」は「パワハラ」の誹りを招いたり、その轍を踏みがちです。

 

 「自己愛(自己肯定感や自己有能感)」が強い「上司」であればあるほど、それ以上に強いかも知れない部下の「自己愛(自己肯定感や自己有能感)」に気付かないで不用意なまたは無配慮な言動や態度を示してしまうのかも知れません。

 

(「パワハラを訴える部下」にとってもそれは、自身の「自己愛」の「確認」や「代償」、「不安」や「コンプレックス」の表明なのかも知れません。「自己肯定」や「自己尊厳」の欲求は、実は上司から見て「仕事が出来ない」部下ほど強いかも知れません。)

 

③ 自分の言動や態度が相手の「心」に与える影響に気付く。

 

 また、人間の「からだ」の傷は気付き易いが、「こころ」の傷は気付き難いということが「パワハラ」を気付き難くさせています。しかも「こころ」の表皮は「からだ」の表皮よりずっと薄く、傷つき易く、癒し難いように思います。

 

 自分自身への「肯定感」や「有能感」が強く、周囲からもそう扱われ、しかもそれが他者への「優越感」で支えられているような「上司」は不用意で無配慮な言動や態度で、「部下」の「こころのうす皮」を「それとは気付かない」で破損してしまうかも知れません。

 

 「身体的・物理的な有形力」によるパワハラは論外ですが、「言葉」やそれに至らない、または作為・無作為を含む「態度」や「反応」が「それとは気付かない」うちに「パワハラ」になってしまっているかも知れません。

 

3.「パワハラ問題」を「武器」にさせないために

 

① IQよりEQ

 

 「EQ」というのは、「他者の感情に気付き、配慮する」能力であり「自分の感情を上手くコントロールする」能力であり、例えば「部下の被害感情に気付き、配慮する」能力であり「自分の『怒り』感情を上手くコントロールする」能力です。

 

 また、人間関係は「理(論理や合理)」だけで成り立っているわけではなく、「情(感情や情緒)」で成り立っている場合が多く、いわゆる「IQの高い人」は「理(論理や合理)」に偏った判断や選択をしがちなので要注意です。

 

② 指導より支援

 

 少なくとも筆者は「上司」の役割が、部下への「指導・育成」だということ自体にやや疑問を持っています。「部下」に必要なのは「指導」よりも「支援」であり、「部下」は「上司が育てる」ものではなく「自ら育つ」ものだと信じています。

 

 部下への「指導・育成」に名を借りた「パワハラ事件」が後を絶ちません。但し、「不正」なことや「危険」なことは、その場で「制止」したり予め「禁止」しなければならず、そのこと自体は決して「パワハラ」に該当しないことは言うまでもありません。

 

③ 「其れ、恕か」

 

 孔子が弟子に「人として最も大切なこと(=それが無くては人間でなくなるほど大切なこと)は何か?」と問われて、「其れ、恕(じょ)か」と答えたそうです。簡単に言えば「人の悲しみや苦しみへの思いやり」「人の過ちや至らなさへの赦し」です。

 

 また「育てることは待つことだ」とも思い、「自分の言いたい事が相手の口から出てくるようにするのが意思疎通」です。「マネジメント」とは「人(のこころ)を通じて仕事をすること」なのですから、肝心の「人(のこころ)」を損ねては成り立ちません。

 

<参考URL>

職場のハラスメント対策_日本看護協会

 

<別稿_好き嫌いの情はそれに留める>

 

1.誰にでも「好き嫌い」の情はある。

 

 誰でも「好き嫌い」の情があるのは人間として当然であり、それ自体を否定すべきではないと思います。「リーダーシップやチームワークは私情を排すべきだ」とは、筆者は必ずしも思いません。

 

 ただし、だからと言って、リーダーとして、マネジメントとして、それをどう捉え、どう扱うか、何を為すべきであり、何を為すべきでないか」は別の問題であり、その先の問題です。

 

2.「好き嫌い」で評価してはいけないか?

 

 ある社長から「好き嫌いで人事評価をしてはいけないのか?」と聞かれたので筆者が「社長はどんな人が嫌いなのですか?」と聞いたら、「自分は無責任な人が嫌いだ。」とのことでしたので「それならそれで評価して結構です。」と筆者は答えました。

 

 もちろん、もっと正確に言うと「人の好き嫌い」で評価するのではなく、例えば「仕事を進める上での無責任な言動や態度に対して否定的な評価を下してそれを適正にフィードバックすること」が大切です。

 

3.「好き嫌い」の情で留めるべき。

 

 セクハラは論外ですが、上司として部下に接する際に「好き嫌い」の情を上手くコントロールできないようでは、場合によっては「パワハラ」の誹りを受ける事態にもなりかねませんので要注意です。

 

 

 要は部下自身の「親和」の情や「尊厳」の情、仕事への動機付けや仕事を通じた成長を損なってはならいのですから、部下側の「好き嫌いの情」はいざ知らず、上司側の「好き嫌いの情」はそこに留める(それに基づく言動や態度を控える)べきです。