20180902_組織の中は無駄だらけ?

 

01.組織の中は無駄だらけ?

 

 「会議の無駄」はよく言われるとおりで、①時間通りにさえ始まらず、②何が論点かさえ明確でなく、③決まったことさえ守られない、そんな会議は何人もの貴重な時間の、何倍もの無駄以外の何ものでもありません。

 

 また、「綱引き理論」はよく知られるとおりで、チームのパワーはメンバーのパワーの総和以上ではありえず、むしろ相互の「サボタージュ」によって、ほぼ常にその総和を下回る

ものでしかありません。

 

 報告・連絡・相談の基本的なコミュニケーションさえ不十分で、ましてや組織的な目標の達成や価値の実現に向けたコミットメントさえ引き出せないようでは、「組織的」であることがまるで「非効率」と同義にさえ思えることさえあります。

 

02.組織的であるがゆえの諸弊害

 

 子どもたちのサッカーゲームにおいてさえ「やってはいけない(許されない)」チームプレイに反する行為を、現実社会の組織人たちが平然と冒しているような事例は筆者の身近にも多く存在します。

 

① 組織的であるがゆえの遅さ

 

 仕事の基本は「迅速・正確・丁寧」です。特に「速さ(早さ)は力」です。「速い(早い)だけで生かせるチャンス」(「遅い」から逃がすチャンス)はいくらでもあります。「トッププレーヤーのスピードに合わせる」以外に試合には勝てません。

 

② 組織的であるがゆえの無責任

 

 組織は「権限と責任の体系」です。管理職には指揮命令権があるからそれに伴う管理責任があるのです。ひとりの担当者にもその仕事の「正確・迅速・丁寧」さに遂行責任があります。組織において責任の無い人は誰一人いません。

 

③ 組織的であるがゆえの怠慢

 

 いわゆる「集団的サボタージュ」は社会心理学でよく知られている通りです。通勤路で人が倒れていても誰一人救助の手を差し伸べない。ひとりの人間としてなら当然行うべきことを組織的であるゆえに行わず、行わざるべきこと(モラルハザード)を行なう。

 

④ 組織的であるがゆえの危うさ

 

 いわゆる「組織的意思決定のリスキーシフト」もよく知られている通りです。戦争で多くの人による非人道的な残虐行為が行われるのは、それが「組織的な意思決定」だからです。ひとりの人間としての感性や良心を「組織目的」に没入してしまうからです。

 

⑤ 組織的であるがゆえの非効率

 

 組織的に最高に効率が良い状態とは、組織構成員ひとりひとりのベクトルがお互いに方向性を一致させ、重複なく連続している場合だけです。組織のベクトルは、ほぼ必ず構成員のベクトルの単純総和を下回ります。「組織的であることは非効率」なのが現実です。

 

03.組織の無駄を省くこともマネジメントのひとつの側面だが…

 

 マネジメントとは本来、組織の目標の達成や価値の実現のためにデシジョンし、人と組織に指し示し、人と組織を動機付けることです。しかし現実的には、上記のような「無駄」や「サボタージュ」や「非効率」を防ぐという側面もあります。

 

 しかし…総じてこうした組織の「無駄」を省けば、ある程度まで組織の「効率」が成り立つものの、その「無駄(と、誰かが判断するもの)」を完全に排除したところに、そもそも「組織」自体が成り立つでしょうか?

 

 成り立たない、と筆者は信じます。誰かには「無駄」であっても、誰かには「無駄」ではないから。お互いの「無駄」をある程度許容し合わない限り、「観念としての組織」は成り立ち得ても、「生身の人間どうしの組織」は成り立たないからです。

 

04.「組織的に」仕事をするということ

 

 「組織的に」仕事をするということは、例えば「共通的な目的の達成や価値の実現にコミットする」「情報を共有し、合意を形成しながら仕事をする」…ということであって、そこには一定の訓練や経験や習慣が必要であるはずです。

 

 もちろん、「組織」には大いなる「無駄」があり、「同じ仕事なら独立すれば3倍出来る」という仕事もあります。「組織の効率を上げる」ことと「組織の無駄を省く」ことがほぼ同意義である側面もあります。

 

 しかし、だからと言って「組織的に」仕事をすることの基本的な訓練も経ず、共通の目的や価値にコミットできるほどの実務経験もなく、情報の共有にも合意の形成にも協力せず、「独立・自営・専門」を標榜して人がいるとしたら、『要注意』です。

 

05.何のために「組織的な」無駄を克服してきたのか?

 

 筆者自身は2018年3月でようやく「雇用関係(という組織関係)」を離れ、同年4月から「独立・自営・専門的な」活動をしています。その中で最も強く実感することのひとつは「時間」に関する自由度や効率性が格段に上がったことです。

 

 例えば筆者自身は極端な「朝型勤務」で、在職中から「始業前にはその日の仕事が半分終わっている」状態でしたが、独立後は「一般人の始業時間前には7~8割方仕事が終わっている」状態になりました。

 

 もちろん、仕事がら、「そこに実際に相手がいなければ成り立たない」仕事がむしろ「主体」ですが、その準備等は一般人の始業時間前に終えてしまっています。モバイルPCひとつで出来る仕事は、移動中でも待機中でも出来ます。

 

 そうした「独立・自営・専門的な」者どうしで、ある「組織的な」事業を始めようとしているのですが、いまひとつ「上手く行かない」のは、せっかく「卒業」したはずの「組織的な」無駄を、再び無自覚に持ち込もうとする動きがむしろ主流だからです。

 

 そればかりか「組織的な」仕事のしかた(たとえば情報共有や合意形成しながら仕事をするということ)自体の訓練や経験や習慣も身についていない(「卒業」さえしていない)レベルの動きさえあるということです。

 

 これでは何のために今まで「組織的な」無駄を「克服」しようとしてきたのか、何のためにわざわざ独立後も再び「組織的な」活動をはじめようとしているのか、「さっぱりわからない」心境に陥っています。

 

 しかしそれをさらに「克服」しない限り、イメージ通りの「独立・自営・専門的」かつ「組織的」な事業は成り立たないでしょう。しかしそれを強く進めようとすればするほど再び「独立・自営・専門的な」陥穽に落ちるような気もします。 

 

06.「組織内で」仕事をしようがしまいが…

 

 「組織内で」(組織に属して)仕事をする場合でも「組織外で」(組織を離れて)仕事をする場合でも、「組織的に」仕事をすることは必要であり重要です。例えば「共通的な目的の達成や価値の実現」「情報の共有と合意の形成」など…

 

 そして両者共通の根底にあるのは「人に対する(自己の、ではなく、相互の)尊厳と親和と協働」だろうと思います。それがなければ「組織内に」留まろうがどうしようが「仕事」自体が成り立たないのだと思います。 

  

07.せめてトップランナーの足を引っ張るな

 

 「組織力を総合して…」「チームプレイで…」と抽象的に「言う」のは簡単ですが、現実的に「行う」のは至難です。むしろ「せめて先頭切って頑張っているトッププレーヤーの足を引っ張るな(やる気・うごきを削ぐな)」と言うほうがよほど「現実的」です。

 

 個々の人間は多かれ少なかれ(意識しようがしまいが)「自分が…」「自分が…」という「自己肯定」と「自己尊厳」の塊です。そうした個々の人間が「組織」を形成し、その「組織力(組織的であるが故の強さ)」を発揮することが可能でしょうか…

 

 せめてサッカーのパスと同じように、「自分の仕事の最善のアウトプットを他のメンバーの仕事の最善のインプットにする」ようにすべきです。他のプレーヤーがトッププレーヤーに必死で最善のパスをすることこそがチームプレイです。

 

 また、サッカーでは基本的なパスも出来ない選手や、最も足の遅い選手や、口だけ動いて手足が動かない選手に合わせて試合をするわけにはいかないはずですが、現実社会の組織では残念ながら必ずしもそうではありません。

 

 基本的な報告・連絡・相談も出来ない人、文書ひとつまともに書けない人、全てが「遅いほうにタイミングがあっている」ような人、もっともらしい一般的抽象的なあるべき論は言えるが、なにひとつ実行・実現できず、支持も信頼も得ない人…

 

08.組織と個人の最適関係のために

 

①メンバーシップ

 

 例えばサッカーで言う基本的なパス回しができるように、報告・連絡・相談ができること、正確・迅速・丁寧にボール(仕事)が処理できること、ラグビーで言う「ONE FOR ALL, ALL FOR ONE」が実践できること。

 

②リーダーシップ

 

 率先垂範。あるべきこと・正しいこと・行うべきことを判断・選択し、自らの言動と態度でメンバーに指し示し、それに向けてメンバーを方向付け・動機付け・支援すること。チームでいちばんつらい人。

 

③マネジメント機能

 

 同上。さらにそれを「人と組織を通じて」行うこと。加えて、「組織的であるゆえの遅さ・無責任・怠慢・危うさ・非効率」の弊害を生じさせないように組織全体に目配り・気配り・手当てをすること。

 

09.但し、「組織の論理」を「国家の論理」にしてはならない。

 

 企業や官僚の「組織」の論理や管理を、そのまま「社会」や「国家」の論理や管理にしては決してならない、と筆者は信じます。企業や官僚の組織原理は「一元制」であり、社会や国家の組成原理は「多元性」です。

 

 誤解をおそれず言えば、社会や国家は、もっと遅く、無責任で、怠慢で、危うく、非効率であって良い。それを許容する社会や国家であって良い。ひとりひとりの人間がそういう人間らしさを組織的に没却しない社会や国家が良い。

 

 概ね「正しい」ことや「効率的」なことほど人間を迫害しやすいことはない。(ナチスを想起すればすぐ分かる。)「真理はひとつ」ではない。「科学が万能」でもない。「企業が全て」では勿論ありえない。