20201016_「違い」は「間違い」ではない。

 

 日本語で「それは違う」というとき、それを「異なる」という意味で言っているのか「間違い」という意味で言っているのかが判然とせず、誤解を受けたり与えたりしてしまうことがときどきあります。

 

 両者間の曖昧さは、おそらく英語文化では生じない(それぞれを意味する言葉自体が異なるから)だろうと思います。日本語でも「それは異なる」と言えば良いのかも知れませんがそれを「不自然」に感じるのは、日本的文化の特色のひとつなのかも知れません。

 

 筆者が会社員時代に、お互いに企業風土の異なるH社とN社の合弁事業に携わったときに痛感したこては、それは大げさに言えば「文化交流」のようなもので、それを成功させるためにはお互いの「当たり前」を「当たり前」だと思ってはならない、ということでした。

 

 言い換えれば、お互いに「違う(異なる)」のが当然なのだから、自分にとって「当たり前」だと思っていることが相手にとっても「当たり前」だという前提でものごとを言ったり行ったりしてはなたないのだということでした。

 

 いわゆる「偏狭な民族主義」(ファシズムに行きつく)というのは、自分と他者との「違い(異なり)」を「間違い」としてしまう(自他の「異なり」を他者の「間違い」と見てしまう)発想や思考に根本があるように思います。

 

 もっと「大げさ」に言えば、文明の進化は異文明との相克から生まれるのであって、その実相は、否定や拒絶や攻撃(違いを拒み、排除する)と肯定や受容や宥和(違いを認め、吸収する)の混然一体状態なのだと思います。

 

 再び企業実務に戻って言えば、差別もパワハラも、自他の「異なり」を相手や他者の「間違い」と見てしまう発想や思考の貧しさ(貧しさ、または苦しみや悩みの足りなさ)や、他者の「異なり」を否定して受容しない偏狭さに根差しているのだろうと思います。

 

 人事評価がたびたび「フェアでない」という不満を招き、非難を浴びるのも、ひょっとしたら評価者の「違いを認めない」という偏狭さ、相手のために悩みも苦しみもしない発想や思考の貧しさのせい、なのかも知れません。