20151123_和を以って「解」となす

 

1.和をもって・・・

 

 「和を以って貴しとなす」という言葉は、聖徳太子の有名な言葉のひとつですが、筆者自身はこの言葉を、人と人との間の問題を解決するのに、「和解」を第一にすべきであるという意味として理解しています。

 

 筆者は企業の人事労務管理という仕事がら、労使間の対立をはじめとして、人と人人と組織、組織と組織の立場や意見や利害の対立する場面に多く直面してきましたがどんな対立も「争いを止めて互譲する」以外には「解決」の途は無いと信じています。

 

 もちろん裁判で争って強制執行力のある「判決」を得るというやり方もありますが、その裁判でさえ(現実的には多くの民事・労働裁判の場合は)「判決」を得るよりむしろ「和解」を成立させるほうが原則です。

 

2.和解とは・・・

 

 この、和解する=「争いを止めて互譲する」という意味での「互譲」とは、「足して2で割る」という意味でも「無理が通れば道理が引っ込む」という意味でもなく、お互いが「低次元の争いを止め、高次元の解に達する」という意味です。

  

 つまらぬメンツや感情、自己都合や目先の利益、低次元の自己保全欲求に拘って「一歩も譲らない」ようでは、人と人との間に起きる問題は何も解決されないはずで、逆に言えば、お互いが譲ることを知れば解決できない問題はありません。

 

 「争う」ことで生きていけるのは裁判官や弁護士だけ(またはベンチャービジネスの経営者だけ)であって、一般的な生活人は「争う」ことでは生きていけません。たとえ「争う」ことに一時的な「勝ち」を得たとしても決して「永続き」はしません。

 

<追記事項>憎しみより愛を、争いより和解を

  

 先日出張帰りに立ち寄った教会の壁に、「憎しみよりも愛を、争いよりも和解を」という言葉が掲げてあるのを見ました。民族や国家や宗教などの違いを超えて、このことが人間的な「真理」であることは、おそらく誰でも「知っている」はずです。

 

 キリストは「汝自身と同じように汝の隣人を愛せ」と教えてくれましたが、さらにこれを超えて、「汝の敵を愛せ」とさえ教えてくれています。人が人を「敵」と呼ぶこと自体、人間の天性に反することだと筆者は思います。