20151213_敵対や闘争が「人間の天性」ではない

 

1.若きマルクスの「人間の天性」という言葉

 

 若きマルクスの「人間の天性」という言葉は、おそらく「人間の類的本質」=「人類福」と「自己実現」とが同時に達成しうるものであることを人間自身が知っていて、実はそのことのためにそうではない現実との間で格闘している、という意味だと思います。

 

 マルクス主義と聞くと、多くの人に未だにアレルギーがあろうかと思いますが、その要因のひとつは、例えば「敵」とか「闘争」というような言葉、即ち「人と人との敵対関係や闘争状態」が、まるで当然のように語られてきたことによると思います。

 

2.「人」に対する「敵」という言葉からは何も生まれない

 

 しかし、「人と人との敵対関係や闘争状態」が「人間の天性」に沿うものでないことは誰でも「知っている(分かっている)」はずあり、「知っている(分かっている)」けれども「そうはいかない現実」との間で諸個人それぞれに「格闘している」はずなのです。

  

 そして、「格闘」すべきは「現実」に対してであり、必ずしも「他人」という意味での「人」に対してではない、ましてやその「人」に対する人格的否定=「敵」という言葉からは、実は歴史的にも何も生まれなかったし、これからも何も生まれないでしょう。

 

3.それでも人間の歴史の現実は「階級間の対立と闘争の歴史」であった

 

 キリストは自らは「敵」の手に捕らえられ、斃れながらも「汝の敵を愛せ」と言いましたが、それは人と人との敵対関係からは「人間の天性」=「人間の類的本質」に沿った「解」は何ひとつも生まれないという意味として今も多くの人々の指針たりえているのでしょう。

 

 それでも人間の歴史の現実は「階級間の対立と闘争の歴史」であったし、人の人に対する暴力による支配と抑圧の歴史であった。資本と労働の対立が人と人の最後の対立であるはずが、その先にもなお「貧富の対立」や「人と組織の対立」が残るような気がします。

 

<追記事項>いったい何と「争う」「闘う」と言うのか?

 

 1.裁判上の「争い」

  

 裁判では、両当事者に「争いのない事実」と「争いのある事実」が整理され、「争いのある事実」については最終的には裁判上の全ての証拠と裁判官の心証に基づいて判決(事実関係に基づく法の解釈と適用)が下されます。

 

 また、民事裁判では、両当事者の主張が出揃ったら、判決に至る前に、裁判官によって「和解」の勧試が行われるのが通常で、両当事者が「互譲(お互いに譲歩)」して「争い」を止め、合意形成するのです。

 

 以上が裁判上の「争い」の意味であって、我々が日常用語で言う「言い争い」や「主導権争い」とは、ずいぶん様相が異なります。しかし、筆者はむしろ、少なくとも社会人どうしの「争い」は、裁判上の「争い」をモデルとすべきであると考えています。

 

2.現実社会での「争い」

  

 現実には、例えば「事実に基づかない主張」が横行したり、「争いの有無の整理」もいい加減で、「互譲を知らない争い」にお互いに無意味な時間や労力を費やすことが多いものです。裁判上の「争い」方や「和解」の仕方はきっと良いモデルになるはずです。

 

 2015年11月13日にパリでISによるものとみられる同時テロが発生し、当事国たるフランス政府首脳からは「テロとの戦い(戦争)」を宣する声明が発せられ、米国ほかの「有志連合」がISの勢力地域に対する空爆を行っています。

 

 我が国の政府首脳もこれに呼応して「(テロと戦う国との)連帯」を表明しましたが、筆者自身は、テロ行為そのものに対するのと同時に、テロとの「戦い(戦争)」やテロ勢力掃討のための「空爆」に対しても、それらへの「連帯」を安易に表明することはできません。

 

3.何と「戦う(闘う)」のか?

 

 「テロとの戦い(戦争)」を表明できるのは、最前線で実際に戦闘行為を行っているシリア政府軍か、当事者国たるフランス政府の指導者等であろうと思うのです。当事件の被害者からですら、「憎しみの連鎖を断ち切ろう」「空爆反対」の声があがっています。

 

 「戦う」という言葉は「闘う」という言葉と同様に勇ましく、安易に多用されがちですが、筆者自身はこれを「人と戦う(闘う)」という意味で対人的に用いるのはヒューマニズムの観点から根本的な「誤り」だと思います。

 

 「戦う(闘う)」べきは「人」に対してではなく、「現実」に対してでしょう。人それぞれの「こうありたい(こうしたい)」という思いと、「そう(上手くは)行かない」現実との間での試行錯誤や悪戦苦闘であるべきでしょう。 

 

4.「戦う(闘う)」ことの「美学」

 

 「戦う(闘う)」ことが忌避されるより、むしろ賞賛される場合があるのは、おそらく「戦う(闘う)」ことに伴う「勇敢さ」や「自己犠牲の尊さ」、また、おそらく「戦う(闘う)」ことのある意味での目的合理性に注目される所以ではないかと思います。

 

 つまり、「戦う(闘う)」ことに含まれるある種の「ヒューマニズム」がそれを肯定的に言わしめるのであり、それは実は、本当の戦争を体験した沖縄の人が、いかなる理由においても「戦争」は絶対悪であると言うのと通じるのかも知れません。 

 

 しかし、本来、「人」を「敵」として「戦う(闘う)」ことほどヒューマニズムに反することはなく、「戦う(闘う)」きは、「人」に対してではなく、例えば「平和」や「幸福」という人間的価値を、そうさせない「現実」に対してである、と筆者は思います。

 

5.権利のための闘争

 

 法の目的は平和であり、これを達成する手段は闘争である。法が、不法の側からの侵害に対してそなえなければならない間は-それはこの世のあるかぎり続くであろう-法は闘争を避けるわけにはいかない。法の生命は闘争である。

 

 上記はイェーリング「権利のための闘争」の一節です。「権利」を「平和」「自由」「幸福」等々の人間的・社会的な価値に置き換えても、「そのための闘争」は、イェーリングが言うように、「この(人の)世があるかぎり」成り立ってしまうのでしょうか?

 

 しかし、究極的には、人間(人類)にとって、例えば「平和」や「自由」や「幸福」という価値は、他の民族・国家・階級・個人の「平和」や「自由」や「幸福」を無視したり、阻害したりすることによって成り立つものではないと確信します。

 

6.正当防衛と緊急避難

 

 刑法第36条には「正当防衛」が「急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない。」と規定されています。例えば刃物を持って襲いかかって来る暴漢を何らかの威力で制圧するのは「正当防衛」です。

 

 刑法第37条には「緊急避難」が「自己又は他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為は、これによって生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り、罰しない。」と規定されています。

 

 例えば対向車が車線を越えて迫ってくるのを避けるためにやむを得ず急ハンドルを切って道路沿いの民家の塀に衝突して損害を与えたような場合は緊急避難でしょう。「正当防衛」も「緊急避難」も、正当な権利や価値のために人と「闘う」ための要件を示しています。