20151220_近代市民社会的な「法の原理」のいくつかについて

 

 筆者自身はあまり勤勉な学生ではありませんでしたが、それでも近代市民社会(少なくとも理念的には独立・対等な人格的諸個人の自由意思に基づく合意からなる社会)における「法の原理」のいくつかは心得ているつもりです。

 

 その中のひとつは、民法でいう「雇用」(労働法でいう「労働」)が「労務(指揮命令)に服して賃金を得る」ことであると定義されているということで、筆者はこの定義にこそ、近代資本主義社会における「雇用(労働)」の本質と限界が究極的に表現されていると思います。

 

 人間にとって「労働」とは、何らかの人間的・社会的な目的を達成し、価値を実現するための組織的・社会的協働であるはずのところが、民法や労働法の世界では、「労務(指揮命令)に服して賃金を得る」ことが「雇用(労働)」であると、本来の豊かな内容がものの見事に捨象されています。

  

 このことは「企業(資本)」においても同様で、それを敢えて法的に定義すれば、「利潤(自己増殖)を究極の目的とする」ことになるのでしょう。そこでは労働が一切の内実を捨象されたのと同様に、企業が達成しようとする目的や実現しようとする価値の全てが捨象されてしまいます。

 

  ところで、労働や資本に対するそうした定義は、単に近代的な法律学や経済学の道具概念であるにとどまらず、われわれの日々日常の「働くの意義や意識」を実質的に深く規定しているように筆者には思えます。

  

 単に賃金を得んがための労働であって良いはずがなく、単に利潤を得んがための企業であって良いはずがありません。そうさせないための諸現実との試行錯誤や悪戦苦闘こそが、近代から現代、現代から未来へかけての「闘い」であるはずだと、筆者は信じています。