20151221_公と私(組織と個人)

 

1.「私を去る」ということ…

 

 同じ経営者でも、稲盛和夫氏からは「私心を去る」という言葉が出て来ても、カルロス・ゴーン氏からは出て来ない。西郷隆盛も夏目漱石も、日本人が好きな偉人の多くはほぼ口を揃えて「私心を去る」ことの大切さを説いています。

 

 人それぞれが「私心」の欲するところに従って自らの行動や態度を選択すればするほど、繁栄や調和がもたらされるというのは全くの幻想であって、現実にもたらされたのはまるで自然現象(または神罰?)のような恐慌と戦争であったことは歴史の事実です。

 

 たとえば「自由・平和・幸福」は、ほとんど万民にとって至高の価値であるはずで、ある人の「自由・平和・幸福」が他の人の「自由・平和・幸福」を犠牲にしては決して成り立たないという意味において真に人間的・社会的な価値であるはずです。

 

 しかしその足元の「経済的な豊かさ」については、中国共産党の偉大な指導者でさえ、「豊かになれる人から順に豊かになればいい」と言わざるを得ないほど、未だに人間は「利己」以上に強い動機付け要因を見い出せず、貧富の差を克服出来ないでいます。

 

2.「総務」と「人事」の職業的倫理

 

 どのような職業にも「それを失っては成り立たない、そこだけは譲れない」という本質や一線があり、それがいわば「職業的倫理」というものであり、それが「職業に貴賎なし」と言われる所以のひとつだろうと思います。

 

 筆者は職業柄、「総務・人事」部門の管理職を務めることが多かったので、「総務」の「総」の字は、「糸へんに公(おおやけ)の心(こころ)」と書くし、「人事」は「人の事を大切に扱う仕事」なのだなあと、しみじみ思ったことがあります。

 

 総務も人事も、企業の「管理部門」のひとつなので、常に「公(おおやけ)の心(こころ)」で仕事をすること(人事は「人(ひと)の事(こと)」を大切に取り扱うこと)が、それに携わる者にとって必要不可欠の「職業倫理」だと思います。

 

3.「私(わたくし)の心」を優先する人たち

 

 先日、ある企業で、自分自身の人事処遇の不満を訴える従業員と面談しました。勤続・経験も35年、定年退職は目前ですが、人事評価も高い方で、要するに「自分を部門の次長級に昇任させないのは間違いだ」という趣旨の訴えでした。

 

 もちろん、「職位の昇任は部門長の権限と責任、本人自身があれこれ言うべきものではない」と言ったのですが収まらず、さらに「私なら、次の世代から次長候補者を推薦して自分は身を退く」と言ったら、「価値観の違いですね」と言ってもの別れになりました。

 

 確かにそれは「価値観の違い」であり、あとで部門長に聞くと、その人の言いたいことは、「今まで35年もやってきて、評価も高いのだから、定年退職前に職位昇進(昇格昇給)させて欲しい。」ということだったので、この件は問答無用で「却下」しました。

 

4.「公(おおやけ)に尽くす」ことができる人たち

 

 「今は昔」かも知れませんが、公務員の人事慣行のひとつに、「退職直前の特別昇進」のようなこともあったらしいと聞きます。まさに、「公(おおやけ)たるもの」の「私(わたくし)するこころ」の代表事例のように筆者には思えます。

 

 最近のニュースを見ていると、「公と私」のけじめのつかない例が多いような気がします。やはり「公(おおやけ)」の立場や職業に就くほどの人は、よほど「私(わたくし)を清めて公(おおやけ)に尽くす」ことができる人でないと務まらないのかも知れません。

 

 歴史上の「偉人」と言われる人たちの多くは「公(おおやけ)」に多くを尽くした人たちであったろうと思います。但しそうした人たちでさえ「私(わたくし)」の立場や事情があったはずで、おそらくその相克を超える「公(おおやけ)」の人たちだったのでしょう。

 

5.公と私は本来矛盾も対立もしない。

 

 夏目漱石は「則天去私」という言葉を好んだそうですが、おそらく「天」というのも「人」とかけはなれたどこかに在るものではなく、「人」の「最も善きもの」を指して言うのだろう、と筆者は理解します。(「天」を「公」に置き換えても同じ。)

 

 もし「天」や「公」が「人」や「私」とかけはなれたところに在り、現実の「人」や「私」が逆にそれに抑圧・迫害されさえするとしたら、それは「自己疎外」そのものであって、本来の「天」は、「人」や「私」と対立や矛盾するものではないと思います。

 

 「天」という言葉を「公」という言葉に置き換えても同じで、もし「公」と「私」が矛盾や対立を生じるようなら、それは「公」か「私」のいずれかが一方的にではなく、おそらく双方に「未熟さ(未だ善きものになりきれない要素)」があるのだろうと思います

 

 筆者は「公」と「私」が、本来的には(歴史的な個別の発展段階においてではなく)決して対立も矛盾もしないものであることを確信しており、むしろ、「公」と「私」が対立も矛盾もしないレベルにおいてしか、「公」も「私」も成り立たないのだと考えています。

 

 少なくとも人類の歴史上の偉人の多くは「公」と「私」を高いレベルで合一させた人たちであったろうと思いますし、現代でも、世代に新旧にかかわらず、「公」と「私」を高いレベルで合一させながら生きている人たちがたくさんいるはずです。

 

 個人が自らの平和や幸福や自由や平等を希求し、実現しようとすることと、そうした諸個人が人類の平和や幸福や自由や平等を希求し、実現しようとすることとは決して対立も矛盾もしないばかりか、両者が対立も矛盾もしないところにしか真には両立しないのです。 

 

 6.組織没入

 

 かつて筆者が韓国資本の企業で人事管理を担務していたとき、人事評価の基準のひとつとして初めて目にした言葉が「組織没入」です。それまで国内資本の企業に慣れ親しんでいた筆者にとって、それは新鮮な発見でした。

 

 「組織のために小我を捨てよ」と言い換えるべきでしょうか。「俺が…」「私は…」という自分勝手な都合や事情を捨てて(超えて)組織協働的な目的の達成や価値の実現に、組織構成員のひとりとしての貢献とコミットメントを求める強いメッセージでしょう。

 

 しかし…これが「個人が組織に埋没する」とか、かつての日本のように「滅私奉公」を強要するようなことにまで至ると話は別で、それでは我々がファシズムという歴史から何も学ばなかったことになってしまいます。

 

7.それぞれの職業を通じて

 

 では何を通じて諸個人はそうした「公と私」(組織と個人)の対立や矛盾を解いていくのかと言えば、それは決して諸個人の「公民としての諸活動」だけではなく、それぞれの「職業」を通じてであると、筆者は考えます。

 

 現代において、「職業」と言えば大多数の人々にとって名実ともに「労務に服して賃金を得る」ことでしかなく、また「組織的協働」は「組織的従属」でしかないかも知れません。しかし、だからと言ってそれが「(人間の将来にとって)それで良い」わけではありません。

 

 自らの「職業」を真に「公」にとっても「私」にとっても価値のあるものにしようという努力や、そうは行かない現実との闘いは、諸個人および人間の遠くない将来において必ず対立や矛盾を超えて実現すると、筆者は確信します。