20151221_公と私(組織と個人)

 

1.組織没入

 

 かつて筆者が韓国資本の企業で人事管理を担務していたとき、人事評価の基準のひとつとして初めて目にした言葉が「組織没入」です。それまで国内資本の企業に慣れ親しんでいた筆者にとって、それは新鮮な発見でした。

 

 「組織のために小我を捨てよ」と言い換えるべきでしょうか。「俺が…」「私は…」という自分勝手な都合や事情を捨てて(超えて)組織協働的な目的の達成や価値の実現に、組織構成員のひとりとしての貢献とコミットメントを求める強いメッセージでしょう。

 

 しかし…これが「個人が組織に埋没する」とか、かつての日本のように「滅私奉公」を強要するようなことにまで至ると話は別で、それでは我々がファシズムという歴史から何も学ばなかったことになってしまいます。

 

2.公と私は矛盾も対立もしない

 

 筆者は「公」と「私」が、本来的には(歴史的な個別の発展段階においてではなく)決して対立も矛盾もしないものであることを確信しており、むしろ、「公」と「私」が対立も矛盾もしないレベルにおいてしか、「公」も「私」も成り立たないのだと考えています。

 

 少なくとも人類の歴史上の偉人の多くは「公」と「私」を高いレベルで合一させた人たちであったろうと思いますし、現代でも、世代に新旧にかかわらず、「公」と「私」を高いレベルで合一させながら生きている人たちがたくさんいるはずです。

 

 個人が自らの平和や幸福や自由や平等を希求し、実現しようとすることと、そうした諸個人が人類の平和や幸福や自由や平等を希求し、実現しようとすることとは決して対立も矛盾もしないばかりか、両者が対立も矛盾もしないところにしか真には両立しないのです。

 

3.それぞれの職業を通じて

 

 では何を通じて諸個人はそうした「公と私」(組織と個人)の対立や矛盾を解いていくのかと言えば、それは決して諸個人の「公民としての諸活動」だけではなく、それぞれの「職業」を通じてであると、筆者は考えます。

 

 現代において、「職業」と言えば大多数の人々にとって名実ともに「労務に服して賃金を得る」ことでしかなく、また「組織的協働」は「組織的従属」でしかないかも知れません。しかし、だからと言ってそれが「(人間の将来にとって)それで良い」わけではありません。

 

 自らの「職業」を真に「公」にとっても「私」にとっても価値のあるものにしようという努力や、そうは行かない現実との闘いは、諸個人および人間の遠くない将来において必ず対立や矛盾を超えて実現すると、筆者は確信します。