20160117_言動選択上の合理性

 

1.コミュニケーションにおける合理性

 

 コミュニケーションの要諦の第一は、言うまでもなく「聴く」こと(肯定的受容と積極的傾聴)ですが、第二は「理解する」ことであり「伝える」ことであり、「理解する」「伝える」際に最も重要な要素は「合理性」ということだろうと思います。

 

 つまり、「合理性」とは、「1+1=2」という数理的な合理性であり、「AならばBである」という論理的な合理性です。また、「何のこと?」という「一義性」が論理性の前提であり、こうした論理性や一義性を欠く会話には、誰でも相当苦労するはずです。

 

 筆者自身も、いわゆる「上司」として、「部下」と会話していると、「一義性」や「論理性」を欠落に苦労することが多く、まるで幼児に対するかのように、「何が?」「なぜ?」「いつ?」・・・などという「問いかけ」をすることも時々あります。

 

2.行動選択の合理性

 

 また、「Q(問い)とA(答え)が合わない」という思いをすることも多く、「AはBですか?」という質問に「CはDです。」と答える部下が本当にいます。少なくともビジネスコミュニケーションにおいては、そのレベルの合理性は最低限必要でしょう。

 

 さらに「行動の合理性」、詳しく言えば「行動選択の合理的根拠」に乏しい行動も目につくことがあり、「どうしてそういう行動選択をするかなあ・・・」と悲しい思いをすることも時々あります。(原因となる行為と発生する結果の因果関係の不認識)

 

 …以上は、ごく一般的な「合理性」の話ですが、実は世の中(人間)には、「合理性」だけでは説明のつかないことのほうが多いような気もします。(好奇心あふれる子供たちに「なぜ?」と聴かれても困ることが多い。。。)

 

3.但し、「合理性」だけが全てではない。

 

 キリストは「お前がメシアなら、この石をパンに変えてみよ」と言われて「人はパンのみにて生きるにあらず」と答え、「お前がメシアか?」と問われて「それはあなたがたが言うことだ」と答えたそうですが、(「Q(問い)とA(答え)が合わない」例です。)

 

 日本国憲法も、おそらく論理的には「筋の通らない悪文」の代表例のように言われますが、聖書も憲法も、ひょっとしたら「それで良い」のかも知れませんし、筆者の前で非論理性を追及されている部下諸君も、ひょっとしたら「それで良い」のかも知れません。

 

 いわゆる「正義」ほど、歴史上、人を虐げて来たものはないのと同じように、おそらく「合理性」は、「不合理性」への寛容が無ければ容赦なく人を傷つけるでしょう。「人事」が求める「解」も、必ずしも常には「合理性」の延長線上にあるわけではありません。