20180517_言動選択の合理性

 

1.数理的な合理性・論理的な合理性

 

 「合理性」とは、例えば「1+1=2」という数理的な合理性であり、「AならばBである」という論理的な合理性です。少なくともこれらの合理性を欠くようではまともなビジネスコミュニケーションは成り立ちません。

 

 「一義性」ということは「論理性」の前提です。つまり、例えば「1+1=2」であってそれ以外ではないこと。「AはA」であってそれ以外ではないことです。この「一義性」を欠くようではまともなビジネスコミュニケーションは成り立ちません。

 

 ところが現実には、例えば筆者が上司として部下と会話をしていると、「1+1=2」ではなかったり、「AはA」ではなかったり、「AならばBである」という論理が成り立たない場合がときどきあります。

 

 「QとAを1対1に対応させる」のも論理性のひとつであり、例えば「AはBですか?」と上司が聞いているのに、「CはDです。」と全く見当はずれな受け答えをする部下がいます。(出題に関係なく自分の知っていることを書くような回答と同じです。)

 

2.行動や態度を選択する上での合理性

  

 行動や態度を選択する上でも合理性が必要です。「A(ある選択)をすればB(その結果)となる」ことを、我々は数理的にも論理的にも経験的にも知っているから「C(別の選択)」をして「D(別の結果)」となるようにするはずです。

 

 例えば「A(礼儀をわきまえない言動)」を選択

 

 

 

どうしてそういう行動選択をするかなあ・・・」と悲しい思いをすることも時々あります。(原因となる行為と発生する結果の因果関係の不認識)

 

 …以上は、ごく一般的な「合理性」の話ですが、実は世の中(人間)には、「合理性」だけでは説明のつかないことのほうが多いような気もします。(好奇心あふれる子供たちに「なぜ?」と聴かれても困ることが多い。。。)

 

3.但し、「合理性」だけが全てではない。

 

 キリストは「お前がメシアなら、この石をパンに変えてみよ」と言われて「人はパンのみにて生きるにあらず」と答え、「お前がメシアか?」と問われて「それはあなたがたが言うことだ」と答えたそうですが、(「Q(問い)とA(答え)が合わない」例です。)

 

 日本国憲法も、おそらく論理的には「筋の通らない悪文」の代表例のように言われますが、聖書も憲法も、ひょっとしたら「それで良い」のかも知れませんし、筆者の前で非論理性を追及されている部下諸君も、ひょっとしたら「それで良い」のかも知れません。

 

 いわゆる「正義」ほど、歴史上、人を虐げて来たものはないのと同じように、おそらく「合理性」は、「不合理性」への寛容が無ければ容赦なく人を傷つけるでしょう。「人事」が求める「解」も、必ずしも常には「合理性」の延長線上にあるわけではありません。