20160504_自己実現より相互協働

 

1.マズローの「欲求五段階説」への素朴な疑問

 

 人事労務のテキストには、いまだにマズローの「欲求五段階説」が数多く登場し、それは人間の欲求を、「生存-保全-親和-尊厳-実現」の五段階に段階付けて説明する動機づけ理論のひとつとして知られています。

 

 「生存-保全-親和-尊厳-実現」のいずれの段階の欲求についても「自己」という言葉を主語として紹介されるのが常であり、原典でもselfという意味の言葉が用いられているのですが、しかしながら筆者は実はこのことに根本的な疑問を抱く者のひとりです。

 

2.生存の欲求でさえ、自分ひとりではどうにもならない。

 

 例えば「生存」や「保全」という人間にとっての「低次元の欲求」における主語を「自己」とするなら、それはまるで動物レベルの血で血を争う生存競争(他の生存を損ねてでも自らの生存を図る)さえ想起させ、とても人間的な欲求のように思えません。

 

 また、より「高次元の欲求」とされる「親和」には「自己」という主語は似合いませんし、「尊厳」に「自己」という主語を冠してそれに限定するなら、それはむしろ人間どうしの理解や協力、また人間としての成長を阻む要素にさえなりかねません。

 

3.「自己」と言うよりむしろ「相互」

 

 そのようにして「生存」「保全」「親和」「尊厳」のいずれにおいても「自己(本位)」を貫くことが本当に「(自己)実現」に達することに通じるのか、むしろ「(人間)相互の」という言葉を主語に冠することのほうがよほど「人間的」なのではないでしょうか?

 

 たとえば「生存」や「保全」は「人間相互の生存や保全」を図ることによってより良く保たれ、「親和」や「尊厳」は「人間相互の親和や尊厳」を措いては成り立たず、「実現」も結局、「人間相互の人間的・社会的な成長」を通じて初めて実現できるものであるはずです。

 

3.人間どうしの争いや不和の根本

 

 人間どうしの争いや不和の根本は、お互いが個々人の立場や都合や利益を価値等々を、「自己尊厳」「自己実現」の名の下に(もしくは露骨に「自己主張」「自己保身」「自己愛欲」に駆られて)非妥協的に押し通そうとすることにあると思います。

 

 国家・民族・宗教間の不和対立も、結局はそれぞれが偏狭な自己意識や排他主義に陥るところに発しているようにしか見えません。「正義のために戦う」と言うが、それも所詮「社会正義に名を借りた自己正義」でしかない例が多いように思います。

 

<追記_20160821>

 

愛だ正義だと言うが・・・

 愛だ正義だと言うのはいいし、

 そのために「闘う」というのも勇ましいが、

 どうか一度、そこから「自己愛」を差し引いて考え直してみて欲しい。

 それでも残る愛と正義のためになら、

 

正義こそが最も人を迫害してきた・・・

 歴史は、

 正義の名のもとにいかに多くの国や民族や宗教が

 迫害されてきたかを教えてくれている。

 経験に学ぶのでは遅すぎる。

 

敬天愛人、則天去私

 西郷隆盛は「敬天愛人」という言葉を好み、

 夏目漱石は「則天去私」という言葉を好みました。

 いずれも卑小な「自己」を乗り越えて、天と人をよりどころに生きよう、

 というメッセージです。