20160806_リスペクトを対人関係の基本に

 

1.いかなる場合でも相手を「否定」してはならない。

 

 組織や企業で組織的協働を行う上では「人間関係(対人関係)」を円満に保つことが基本的に重要ですが、では、「人間関係(対人関係)」を円満に保つ上で何が最低限の基本かと問われれば、筆者は迷いなく「相手を否定しない」ということだと答えます。

 

 マズローの説に待つまでもなく、人間は誰でも自己保全、自己肯定、自己尊厳の世界に生きており、自己保全や自己肯定や自己尊厳を侵すもの、侵そうとするものに対しては、それが何ものであっても本能的に嫌悪し、拒絶し、反発し、場合によっては反撃さえします。

 

 相手の言うこと、為すことを、頭ごなしに、ことごとく、一方的に否定ばかりしていたのでは、相手との関係がまともに成り立つはずもなく、仮に何らかの(親子の、上司部下の・・・)「権力関係」で一見それが成り立っているように見えても、いずれそれは破綻します。

 

2.人は誰でも「自己肯定感」で生きている。

 

 筆者は必ずしも「褒めて育てる」ことが全てだとは考えておらず、「成長の促進」のためには、場合によっては厳しい「自己批判」が必要であると思っていますが、「自己批判」の局面においてでさえ、最低限の「自己肯定」を失してはならないと思います。

 

 「それを失くしては人間が人間でなくなってしまうものは何か?」という問いに対して、孔子は「それ、恕(人間どうしの思いやり)か」と答え、イエスは「愛(せめて自己を愛する程度の隣人への愛)」だと答えましたが、筆者なら「自己肯定感」と答えるでしょう。

 

 せめて自己を保全しようとする程度の相手の保全、せめて自己を肯定しようとする程度の肯定、せめて自己を尊厳しようとする程度の相手の尊厳、その上で初めて自己を実現しようとする程度の相手の実現、自己が幸福であろうとする程度の幸福が成り立つでしょう。

 

3.相手へのリスペクトを失ったら「別れる」ほうが良い。

 

 ・・・ と、そこまで悲観的にならず、もう少し楽観的に考えるなら、以前、若い人の間で流行語のように使われた「リスペクト(敬意)」という言葉をそのまま借用すれば、「どのような相手であってもその相手へのリスペクト」こそが対人関係の基本だとも思います。

 

 友人でも家族でも、教師でも生徒でも、上司でも部下でも、お互いに最低限の「リスペクト」を失するようではまともな「対人関係(人間関係)」は成り立たず、それが回復不可能なら、せめて「平和的に一旦離別するほうが良い」とも思います。

 

 企業も組織も国家も社会も、結局のところ人と人と関係は、お互いのリスペクト無しには成り立たない。たとえ「敵」と呼ばれる人たちに対してでさえ(「敵」という言葉自体が既にリスペクトを欠く言葉ですが)リスペクトを欠いてはならないと思います。

 

<追記事項_20160904>褒めるときにヒトを褒め、誹るときにはヒトを誹らず

 

 「褒めるときにヒトを褒める」のは良いが、「誹るときにはヒトを誹らず」です。否定・批判・非難をせざるを得ないときは決して「ヒト」に対してしてはならず、せめて「ヒト」によって現に現れた言動(コト・モノ)に留めることにしようと思います。

 

 多くの隣人に愛されたヒューマニズムの思想家であったフォイエルバッハは、「他人に対してはいくら唯物論的であってもありすぎることはない」と言ったそうですが、他人に対してその「ヒト」をあれこれと論うことにはいくら謙虚であってもありすぎることはないでしょう。

 

 子供に対してであれ、部下に対してであれ、褒めるときに言う以外には、その「ヒト」を指して言うことはもうやめよう。「ヒト」を指して言ったことは二度と元に戻れない。たとえ「争う」ときであっても「ヒト」と争ってはならない、と思います。