自己尊厳の壁

 

 自己肯定や自己尊厳は自己成長の推進力にもなるでしょうが、それが自己努力の裏付けのないものであったり、他者への配慮や尊重を欠くものであっては、逆に成長の壁になりうると思うのです…(偏狭な自己尊厳は他者への攻撃の起爆剤にさえなりうる…)

 

<追記事項_20211008 自重と自尊>

 

 「自重」には「わが身を慎む(謙抑性)」という意味もあり、自分自身の誇りと品位を保つという意味では「自尊」はとても大切なことだと思うのですが、「男尊女卑」という言葉があるように、他者を貶めたり損ねたりして自尊を保とうとすることは自戒すべきです。

 

<追記事項_20210915 自己肯定・自己尊厳のすさまじさにたじろぐ思い…>

 

① ...たとえば何かのテーマである人と「議論」するとする、そうすると人によってはファクトもロジックも、はては肝心のテーマや論点さえ無視してひたすら自己肯定のための「論陣」を張ろうとする…筆者は早々に「議論」の場から立ち去ろうとする…。

 

② …「人事評価」とか、いわゆる「改善指導」のような、相手をある意味「否定的」に扱うような働きかけをする場合に、まず立ちはだかる「壁」は、相手の、強固(実はそれでいて根拠なく脆い)自己肯定と自己尊厳の「壁」であるように、筆者には思えるのです。

 

③ …ただし、「教育改善指導」を効果的に行おうとする場合に、自他の自己肯定と自己尊厳の「壁」で対峙していても埒があきません。お互いにどこかに用水路か通用門かライフラインかホットラインを設けて交流する以外にないのですが…。

 

④ 幼児性、未熟性から言えば、筆者が小学生のころ、最良の友人からもらった卒業時のメッセージが「ボクは男前でカッコイイな~♪」で…それにあまり「違和感」を感じなかった自分が「恐ろしい」のですが…優等生の幼児性や未熟性というのはそういうものでしょう。

 

⑤ そんなことを言いながら、今でもわが身を振り返ればさらに心もとなく…例えば他者の卓越した所論に謙虚に学ぼうとする姿勢があるかと言えば…そうした姿勢より、自説が重んじられない不満が「壁」になって先に立っている…???

 

<追記事項_20210912 自己肯定・自己尊厳とパーソナリティー障害>

 

 確かに年少者の「自我の確立(例えば親離れ)」は人の「成長(発達)」の主軸のひとつではあり、また人の「成長」は「自己保全」や「自己尊厳」を足場とする「自己実現」の過程であると言えるとは思うのですが…

 

 それほどまでにひたすら「自己」「自己」「自己」と「自己」中心に(または「自己」愛的(?))に「尊厳」だの「実現」だのを追い求めるあまり、一種の発達障害型、社会的適応不全型、自己愛型パーソナリティー障害に陥ってしまうリスクはないでしょうか?

 

 たしかに自己肯定・自己尊厳は成長のエネルギー源ではあったでしょうが、それがあまりに「自己」に偏りすぎ、「他者」の肯定や尊厳を欠いてしまうほどに偏向してしまうと、かえって社会的人格の成長(発達)の壁にさえなるでしょう。

 

<追記事項_20210527 「自己偏重は争いのもと」だとさえ思う。>

 

… 人間どうしが争うのは偏狭な個人主義や国家主義や民族主義が、その自己生存や自己安全や自己尊厳をかけて、他の個人や国家や民族の生存や安全や尊厳を侵そうとするからです。(「鬼畜米英」などと言っていては結局、米英に「勝つ」ことさえできません。)

 

… 日常的な個人間の「争い」の多くも、個々人の取るに足りない自己保全感や自己肯定感どうしのいがみ合いでしかありません。(争うほどに相手の「自己尊厳」を損なう言動が多くしてしまっては「和解」の途はますます遠ざかります。仇敵にこそ敬語を用いよ!)

 

<追記事項_20200602「人は変わらない」のは自己保全・自己肯定の生き物だから>

 

… 「その人が成長する」ということは「頭でわかる」だけでなく「その人の何かが変わる」ということでないと意味がないと思います。その人の思考や言動や習慣が、現実に変わらないと意味がない。

 

… ところがどんなに純粋で素直な子どもでさえ、そう簡単には変わらない。ましてや自己肯定・自己保全・自己尊厳・自己実現…と「自己の壁」に閉ざされた大人は、実に「テコでも変わらない」ことを、筆者などは実感します。⇒ 育てることは信じて待つこと

 

<以下原文>

 

1.人間の「自己保全」「自己肯定」「自己尊厳」の強固さにたじろぐ思いをする。

 

 もちろんこれは筆者の私見ではありますが、 人間が「自分自身」を「保全」し、「肯定」し、「尊厳」を保とうという本能は、想像以上に強いものであると思います。(それは人間が自己「生存」のために、他人と「生死を争う」場面を想像すれば分かるでしょう。)

 

 とくに筆者が、企業の人事管理という仕事を通じて「人(特に部下)」の「自己尊厳」の意識の強固さにたじろぐ思いをするのは、「採用」や「育成」や「評価」という人事の業務が、人の「自己尊厳」の意識とある意味で「対峙する」場面が多いからでしょう。

 

 「採用」でも「育成」でも「評価」でも、人事がしていることは、「企業活動を行う上でで」という前提や範囲においてではあれ、「人」のかなり人格的な側面や要素にまで立ち入るので、そこに「自己尊厳の壁」が立ちはだかるように見えるのでしょう。

 

2.人事の壁

 

 人事という仕事においても、こうした人間の「自己(自我)の壁」が、現実的な諸問題の解決を困難にしているように、筆者には思えます。例えば組織的協働が上手く進まない、例えば人事評価制度が上手く機能しない、例えば人の成長が上手く進まない等です。 

 

 組織的協働について言うなら、組織全体を構成する部分組織であるはずのものが、偏狭なセクショナリズムに陥ってしまう現象です。(人類世界を構成する諸国が偏狭なナショナリズムに陥ってしまうのと同じです。)

 

 人事評価制度について言うなら、仕事を通じた組織や企業への協働性や貢献度が人事評価最も基本的な評価軸であるはずなのに、評価者と被評価者との間の偏狭な人間関係に左右されてしまう現象です。

 

3.成長の壁

 

 マズローは、「人間は、自己実現に向けた自己成長に動機付けられている」と言いましたが、筆者には、そのひとつ手前の「自己尊厳」の本能や意識が、現実的には自己成長や自己実現の「エネルギー源」にも「壁」にもなっているように思えます。

 

 企業における「育成(=人の成長の促進)」という場面においても、その人の「自己尊厳」の本能や意識を「刺激」(簡単に言うと「褒めたり賺したり」)しながら「自己実現に向けての自己成長」に導くのがひとつの方法です。

 

 しかしその一方で、「育成(=人の成長の促進)」の対象となる「人」が「自分(=その「人」の考え方・価値観・習慣など)」をなかなか改めようとせず、改めたかに見えてまた元に戻してしまうのは、やはり「自己尊厳が成長の壁になっている」ように見えます。

 

 <自己尊厳(自己保全と自己正当化)の壁が成長の糧を堰き止めてしまう?>

 

 「成長(社会的人格性の健全な発達)」のためには「不都合な事実」や「耳の痛い批判」 でもこれを謙虚に受け入れて成長の糧にしてしまうほどでなければならないはずですが、自己尊厳(自己保全と自己正当化)が過ぎるとそれを堰き止めてしまいます…

 

4.コミュニケーションの壁

 

 良好な人間関係(相互の信頼関係)の基礎は良好なコミュニケーションであり、その基本は相互の「肯定的受容」と「積極的傾聴」ですが、さらにその基本はお互いへの「リスペクト」つまり、お互いの「自己尊厳」意識への配慮でしょう。

 

 良好なコミュニケーションのためには「何を言うか」より「どう言うか」「どう聴くか」が大切であって、「リスペクト」即ちお互いの「自己尊厳」への配慮に満ちた「ものの言い方」や「受容や傾聴」が有ればコミュニケーションが促進され、無ければ阻害されます。

 

 相手の言うことを軽んじたり、無視したり、否定したりすることは、相手の人格的要素への軽視や無視や否定にもつながります。そんなことをして自分の言いたいことが相手に伝わるはずもなく、相手が言いたいことが自分に分かるはずもないのです。

  

5.「自己」の壁を超えなければ「保全」さえ成り立たない。

 

 しかし人間には「自己」を頑なに保全し、肯定し、その尊厳を保とうとする本能や意識と同時に、「自分以外の人間」(=キリスト教で言う「汝の隣人」、マルクスが言う「類的人間」)を保全し肯定し、その尊厳を保とうとする本能や意識が備わっています。

 

 マズロー説では「尊厳」も「実現」も、「自己(Self)」という言葉が前提になっていますが、人間の天性はむしろ、生存や保全でさえ、「相互」でなければ成り立たず、まして親和や尊厳や実現は、「相互」以外には成り立たないことを知っていると思います。

 

 そうして考えると「自己尊厳」は、「自己」のみに執着するから「壁」になるのであって、「相互あってこその自己」だと思い改めたときにその壁を越えてようやく「人間としての実現」とそれに向けた「人間としての成長」があるはずだというのが筆者の私見です。

 

<モチベーションの要因としての自己尊厳>

 

 「達成感」や「有能感」や「優越感」は強いモチベーション要因になりますが、これらはいずれも「自己尊厳」感に根差した諸感情です。上司が部下のモチベーションをマネジメントする上では、誤りや危険を伴わないかぎり、こうした諸感情を損ねてはなりません。

 

 しかし、組織としての目的を達成し、価値を実現するための協調性や協働性は、「自己」のみを主語とするだけでは成り立たない、いわゆる「個人主義的成果主義」が少なくともわが国では上手く行かなかったのは「むべなるかな」です。

 

<怒りやイライラと自己尊厳>

 

 いわゆる「アンガーマネジメント」、即ち怒りやイライラという自分の感情さえ上手くマネジメントできないような上司では話になりませんが、この「怒りやイライラ」の原因のひとつが「自己尊厳」だろうと思います。

 

 とくに「仕事が出来る」と言われて育った上司が起こしやすい部下とのコミュニケーション上のトラブル(場合によってはハラスメント)の多くは、上司自身の「自己尊厳」感や、そこから生じる部下への怒りやイライラに起因するものと思います。

 

 部下から期待するアウトプットが出てこないのは、部下が「困っている」場合と、部下が「怠けている」場合がありますが、そうした見極めと、自分の「自己尊厳」レベルと怒りやイライラの温度を下げてから臨む姿勢が必要です。

 

6.自己尊厳は怒りや苛立ち、したがって攻撃のもとでさえある。

 

 過去の戦争はほぼ例外なく自国(自民族)への自存や自尊をベースに、また、貧困や差別への怒り憤りを起爆剤として、また他国(他民族)に原因(責任)を転嫁したり、他国(他民族)を怒り憤り憎しみ蔑み攻撃の標的にしながら戦われてきました。

 

 偏狭なナショナリズムや軍事優先思考が…自己(自国・自民族)の壁が高すぎると、その壁の向こうにいる人たちが、自分たちと同じように本来相互に共感・共存・共有できるはずの国民性や民族性や人格性や人間性さえを、見失ってしまうのでしょうか。