20170331_公(おおやけ)の心と私(わたくし)の心

 

1.「総務」と「人事」の職業的倫理

 

 どのような職業にも「それを失っては成り立たない、そこだけは譲れない」という本質や一線があり、それがいわば「職業的倫理」というものであり、それが「職業に貴賎なし」と言われる所以のひとつだろうと思います。

 

 筆者は職業柄、「総務・人事」部門の管理職を務めることが多かったので、「総務」の「総」の字は、「糸へんに公(おおやけ)の心(こころ)」と書くし、「人事」は「人の事を大切に扱う仕事」なのだなあと、しみじみ思ったことがあります。

 

 総務も人事も、企業の「管理部門」のひとつなので、常に「公(おおやけ)の心(こころ)」で仕事をすること(人事は「人(ひと)の事(こと)」を大切に取り扱うこと)が、それに携わる者にとって必要不可欠の「職業倫理」だと思います。

 

2.「私(わたくし)の心」を優先する人たち

 

 先日、ある企業で、自分自身の人事処遇の不満を訴える従業員と面談しました。勤続・経験も35年、定年退職は目前ですが、人事評価も高い方で、要するに「自分を部門の次長級に昇任させないのは間違いだ」という趣旨の訴えでした。

 

 もちろん、「職位の昇任は部門長の権限と責任、本人自身があれこれ言うべきものではない」と言ったのですが収まらず、さらに「私なら、次の世代から次長候補者を推薦して自分は身を退く」と言ったら、「価値観の違いですね」と言ってもの別れになりました。

 

 確かにそれは「価値観の違い」であり、あとで部門長に聞くと、その人の言いたいことは、「今まで35年もやってきて、評価も高いのだから、定年退職前に職位昇進(昇格昇給)させて欲しい。」ということだったので、この件は問答無用で「却下」しました。

 

3.「公(おおやけ)に尽くす」ことができる人たち

 

 「今は昔」かも知れませんが、公務員の人事慣行のひとつに、「退職直前の特別昇進」のようなこともあったらしいと聞きます。まさに、「公(おおやけ)たるもの」の「私(わたくし)するこころ」の代表事例のように筆者には思えます。

 

 最近のニュースを見ていると、「公と私」のけじめのつかない例が多いような気がします。やはり「公(おおやけ)」の立場や職業に就くほどの人は、よほど「私(わたくし)を清めて公(おおやけ)に尽くす」ことができる人でないと務まらないのかも知れません。

 

 歴史上の「偉人」と言われる人たちの多くは「公(おおやけ)」に多くを尽くした人たちであったろうと思います。但しそうした人たちでさえ「私(わたくし)」の立場や事情が無かったはずはなく、おそらく両者の相克を大きく超える「公(おおやけ)」の人たちだったのでしょう。

 

<追記事項>公と私は本来矛盾も対立もしない。

 

 夏目漱石は「則天去私」という言葉を好んだそうですが、おそらく「天」というのも「人」とかけはなれたどこかに在るものではなく、「人」の「最も善きもの」を指して言うのだろう、と筆者は理解します。(「天」を「公」に置き換えても同じ。)

 

 もし「天」や「公」が「人」や「私」とかけはなれたところに在り、現実の「人」や「私」が逆にそれに抑圧・迫害されさえするとしたら、それは「自己疎外」そのものであって、本来の「天」は、「人」や「私」と対立や矛盾するものではないと思います。

 

 「天」という言葉を「公」という言葉に置き換えても同じで、もし「公」と「私」が矛盾や対立を生じるようなら、それは「公」か「私」のいずれかが一方的にではなく、おそらく双方に「未熟さ(未だ善きものになりきれない要素)」があるのだろうと思います。