20170409_対立物に含まれる普遍的価値

 20181113 改

 

1.「戦争」にも「正義」という普遍的価値が!?

 

 フェアに言えば、「教育勅語」にはいくつかの普遍的な価値観が含まれており、誰もそれ自体を否定することはできないと思います。しかし、少なくとも国家神道や天皇主権に基づくような価値観は「教育勅語」とともに既に歴史的に完全否定されたものです。

   

 例えば「戦争」にも、「正義」などのいくつかの普遍的価値観が含まれているかも知れず、だからこそ未だに行われているのでしょうが、やはりそれ自体は「理由の如何を問わず絶対に始めてはならないこと」としていずれ歴史的に完全否定されるでしょう。

 

 また例えば「原子力発電」が実は未だ人類が完全に「アンダーコントロール」できる状態にはなっていないことが明らかになった以上、いろいろな「効用」はあるにせよ、これを否定して将来のエネルギー源を再選択する以外に無いと思います。

 

2.対立物に含まれる共通的(普遍的)価値

 

 つまり「教育勅語」も「戦争」も「原子力発電」も既に(いずれ)歴史的に完全否定されるべきもの(=我々にとっての対立物)ですが、しかしその中には「道徳」や「正義」や「効用」といった我々にとっての共通的・普遍的な「価値」が含まれるはずです。

 

 そして、それらとの対立や、それらの否定を通じて我々が提示すべきものは、それらの共通的・普遍的な価値を全く別のかたちで実現するものである以外にはない(それを提示できなければ単なる対立や否定で終わってしまい、何の解決にもならない)と思います。

 

3.「和解」とは「対立」に含まれる普遍的価値観を共有すること

 

 米国が北朝鮮を再び「テロ支援国家」に指定し、ますます「対立」の度を深めていますが(2017年11月現在)、そもそも国家間に(結局は人と人の間に)、人間的な価値観を一切共有しない対立関係など成り立つのでしょうか?

 

 もし成り立つとしてもそれは国民を国家間の戦争に動機付けるための為政者によるデマゴーグ(プロパガンタ)においてではないでしょうか。当たり前ですが「平和」より「戦争」を普遍的な価値観としてもつ国民はどこにも存在しないのです。

 

 筆者は長い職業経験から「対立」は、決して「無理が通れば道理が引っ込む」式や「足して二で割る」式によって「解決」するのではなく、両者が共通普遍の価値観に立つことによって「和解」に達するのだと信じています。