20170428_批判を禁じてはならない

 

1.批判を許さなければ真理にも正義にも近付けない。

 

 科学の使命は「事実」に基づいて「真理」を発見し、証明することです。人間がそれを好むか否か、欲するか否か、どう思うかにかかわらず、「AはBである」ということを合理的な疑問や批判の余地が無くなるまで証明することです。

 

 しかし「科学的真理」の発見や証明でさえ、あくまで人間の営みのひとつでしかなく、疑問や批判を全く許さない「絶対的真理」というものは意外と少なく、また人間は実際には、自ら好み、欲し、思うところの「相対的真理」の中で生きているのかも知れません。

 

 「科学的真理」でさえ未だに多くの疑問や批判の余地を残しているなら、ましていわんや思想の正当性や、政治の妥当性は、常に疑問や批判に自らをさらけ出しているのでなければ単なるドクマや専制でしかなくなるでしょう。  

 

2.「真理はひとつ」ではないかも知れない。

 

 例えば「神は存在するか?」という問いに対して、ただひとつの真理で答えることは出来ないし、してはならないし、ましてやそれを人が人に強いることがあってはならないと思います。筆者自身はフォイエルバッハに倣って「神は人間(の理性)の創造物」だと思っています。

 

 では、犯罪の捜査や裁判で言うように、「事実はひとつ」なのでしょうか。捜査も裁判も、所詮、事実そのものではなく、事実が遺した証拠を重ね合わせて「合理的な疑いを挿し挟めない程度に」証明した結果であるに過ぎません。

 

 ひょっとしたら今でも「地動説」を否定して「天動説」を信じる人がいるかも知れません。そのほうがいろんなことに納得の行く説明ができるかも知れません。たとえ科学的に証明済みの「真理」であってもそれだけが唯一の真理ではないかも知れません。

 

3.事実と実践と実証を重ねて批判をする。

 

 自分自身はぬくぬくと組織内に身を置きながらその執行部を批判して正義面や改革者を気取るのはさすがに気恥ずかしいので、それをするくらいなら当の執行部に自ら取って代わるか、その組織から出て自ら組織を立ち上げる以外にないと思います。

 

 ましてや事実に基づかない批判、実践を伴わない批判、実証できない批判はすべきではないし、誰しも受け入れ難いものでしょう。特に企業の実務の世界ではそうする人たちは「単なる評論家」として軽んじられることが多いものです。

 

 「批判」は必ずしも「言論」をもって行なうのではなく、真正な事実に基づき、自らの実践を通じて、厳格な実証によって行なうことができるし、もしその「批判」をお互いに受け入れられやすいものにしたなら、本来そうすべきでしょう。