20170513_毀誉褒貶(きよほうへん)は人の世の常

 

1.所詮は評価者が知りうる範囲内でしか行われない。

 

 評価は所詮、評価者が知りうる範囲内や判断しうるレベルにおいてでしか行われません。評価者がモノを知らない場合や考えが足りない場合には「期待感」を満たす評価は得られず、自己評価は評価の判断材料にはなっても評価そのものではありません。

 

2.人事評価への不信不満は無くならない。

 

 「人事評価」への「期待感」は「客観性」「公平性」「妥当性」という言葉で表現されますが、モノを知らず、考えの足りない評価者が行う評価は、被評価者にこうした期待感を満たさず、評価者への「不信感」や「不満感」を招かずにはおきません。

 

3.裁判でさえ裁判官の自由心証で行われる。

 

 しかし、裁判でさえ、客観的な証拠と法的な公平に基づくものであるとは言え、最終的には裁判官の自由な心証に基づいて判決が下されるのですから、「客観性」や「公平性」を訴訟の両当事者ともに感じさせることは容易ではないはずです。

 

4.人事評価においてはなおさらのこと。

 

 ましていわんや裁判ほどの知見や判断や手続き期待できない人事評価が、「客観性」や「公平性」からはほど遠いのが現実であり、だからせめて人事評価の「信頼性」「妥当性」「納得性」を高めようという謙虚な努力や工夫が必要なのです。

 

5.毀誉褒貶は人の世の常と諦める。

 

 極論すれば「棺(ひつぎ)を蓋(おお)いてのち定まる」のが「評価」ですが、「人事評価」においても、せめて「組織の目的や価値に照らして誰がどのように貢献しているか?」という視点にまで焦点を引いて見れば、「自ずと定まる」ものなのかも知れません。

 

6.しかし評価は自ずと定まる。

 

 ですからそうした評価が定まるまでは、誰でも不信感や不満感が募る評価を受けることがあるだろうとは思いますが、それも「人の世の常」であり、自分は自分で信じるところのベストを尽くす以外にはないように思います。

 

7.最大多数が歴史の中で最適評価を行う。

 

 結局のところ、評価はひとりの評価者が行なうものでは無く、その組織ならその組織に属し、その人の行うところを知るより多くの人たちが、その時代および後の時代において、いわば歴史の中で行うものであるように思います。