毀誉褒貶(きよほうへん)は人の世の常

 

1.所詮は評価者が知りうる範囲内でしか行われない。

 

 評価は所詮、評価者が知りうる範囲内や判断しうるレベルにおいてでしか行われません。評価者がモノを知らない場合や考えが足りない場合には「期待感」を満たす評価は得られず、自己評価は評価の判断材料にはなっても評価そのものではありません。

 

2.人事評価への不信不満は無くならない。

 

 「人事評価」への「期待感」は「客観性」「公平性」「妥当性」という言葉で表現されますが、モノを知らず、考えの足りない評価者が行う評価は、被評価者にこうした期待感を満たさず、評価者への「不信感」や「不満感」を招かずにはおきません。

 

3.裁判でさえ裁判官の自由心証で行われる。

 

 しかし、裁判でさえ、客観的な証拠と法的な公平に基づくものであるとは言え、最終的には裁判官の自由な心証に基づいて判決が下されるのですから、「客観性」や「公平性」を訴訟の両当事者ともに感じさせることは容易ではないはずです。

 

4.人事評価においてはなおさらのこと。

 

 ましていわんや裁判ほどの知見や判断や手続き期待できない人事評価が、「客観性」や「公平性」からはほど遠いのが現実であり、だからせめて人事評価の「信頼性」「妥当性」「納得性」を高めようという謙虚な努力や工夫が必要なのです。

 

5.毀誉褒貶は人の世の常と諦める。

 

 極論すれば「棺(ひつぎ)を蓋(おお)いてのち定まる」のが「評価」ですが、「人事評価」においても、せめて「組織の目的や価値に照らして誰がどのように貢献しているか?」という視点にまで焦点を引いて見れば、「自ずと定まる」ものなのかも知れません。

 

6.しかし評価は自ずと定まる。

 

 ですからそうした評価が定まるまでは、誰でも不信感や不満感が募る評価を受けることがあるだろうとは思いますが、それも「人の世の常」であり、自分は自分で信じるところのベストを尽くす以外にはないように思います。

 

7.歴史が最適な評価を行う。

 

 結局のところ、評価はひとりの評価者が行なうものでは無く、その組織ならその組織に属し、その人の行うところを知るより多くの人たちが、その時代および後の時代において、いわば歴史の検証の中で行うものであるように思います。

 

<追稿_人にはその言うに任せ、統計的に割り切るのが良い。>

 

1.統計はウソをつかない。

 

 筆者自身は「統計学」にはほとんど知見が無く、大学の教養課程で「統計学」の講義に出ては見たものの3回持たずに退散しました。(それでも「曖昧な事象」を統計学の知見で何とかして把握して制御できないかというテーマについては今でも興味をもっています。)

 

 会社に入ってからはその年度の退職者数を、過去の年度の退職者の属性や退職理由から推定したり、人事施策は、対象となる職員の「何パーセントの人がどういう反応をするか」の予測を立てながら実行に移してきたつもりです。

 

 つまり、自分の主観的な思いにかかわらず、統計を通じてものごとを観察するならば、その客観的な有様が見えてくるし、何が問題で、どうすべきかもということも自ずと見てくる(統計はウソをつかない)はずだというのが、筆者の確信のひとつです。

 

2.いろんな人たちのいろんな反応も、「それも統計のひとつ」と考えれば割り切れる。

 

 自分に対する相手や周囲の人たちの反応(言動や態度)にイラっとしたり、ムッとしたり、カッとしたり、クヨクヨ気になったりすることが多いとは思いますが、「それも統計のひとつ」だと割切って考えてはどうでしょうか?

 

 つまり、個人個人の反応をいちいち気にせず、「そういう(反応をする)人もいるんだなあ」と思いながら、まるで自分が相手を対象に統計調査でもしているような気分(スタンス)で、ある意味「客観視」してはどうでしょうか?

 

 人間である限り、感情的にネガティブな反応は誰にでもありますので、それを無理やり抑制する必要は無いと思いますが、しかし、感情的な反応は一瞬で過ぎ去って行くものとしてとらえたほうが良い(「悪いことは忘れる」習慣にしたほうが良い)と思います。