何をせんとや生れけむ

 

1.遊びをせんとや生まれけむ

 

  「遊びをせんとや生れけむ、戯れ せんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ。」( 梁塵秘抄)という無常観も、心情的には「いいなあ」と思うことが筆者にもときどきあります。

 

 織田信長が好んだ「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」(敦盛)も、豊臣秀吉が遺した「露と落ち、露と消えにし我が身かな、浪速のことも 夢のまた夢」にも深い感銘を受けます。

 

 また「風と光と二十の私と」や「私は海を抱きしめていたい」(いずれも坂口安吾)は、そのタイトルだけを見ても「自然の一部としての人間」への郷愁や回帰の念をそそられる思いがします。

 

 稲盛和夫氏はその著書の中で「人間はただこの世に人格(人間性)の修行にきただけ」という趣旨のことを述べ、初期マルクスはその著書の中でさかんに「人間の天性」の実現という意味のことを述べています。

 

2.(人間的・社会的な)人格の形成と完成

 

 … しかし一方で、「自分は何をしに人として生まれて来たのか?」と自問するとき、答えが「(人間的・社会的な)人格の形成と完成」以外に見つからないようにも思えます。もちろん「完成」などほぼあり得ず、今後も「形成」過程でしかないのですが。

 

 例えばマズローで言えばそれが「自己実現」ということになるのかも知れませんし、筆者流に翻訳すれば「人間的・社会的な目的の達成や価値の実現」となるのですが、もっと東洋的に言えば「徳を積む」という素朴な言葉のほうが似合うようにも思います。

 

 さて「仕事」は、その中でも「それを通じて(人間的・社会的な)人格の形成」をするための「最も主要な場面」であるはずで、それがそうでなく「労務に服して賃金を得る」だけのものであってはならないはずです。

 

 初期マルクス流に言えば「人間は人間の天性を実現するために『闘って』きた」というべきかも知れませんが、筆者流に言い直せば、「人間は人間性を実現するために『働いて』きた」のだと思います。