1.遊びをせんとや生まれけむ
「遊びをせんとや生れけむ、戯れ せんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ」( 梁塵秘抄)という無常観も、心情的には「いいなあ」と思うことが筆者にもときどきあります。
澁澤龍彦さん(フランス文学者、「悪徳の栄え」の訳者)流に言えば「快楽せんとや生まれけむ」かも知れませんし、養老孟司先生の愛猫のように「居心地のいい場所にいる」ことが「生き方」なのかも知れません。
織田信長が好んだ「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」(敦盛)も、豊臣秀吉が遺した「露と落ち、露と消えにし我が身かな、浪速のことも 夢のまた夢」にも深い感銘を受けます。
また「風と光と二十の私と」や「私は海を抱きしめていたい」(いずれも坂口安吾)は、そのタイトルだけを見ても「自然の一部としての人間」への郷愁や回帰の念をそそられる思いがします。
稲盛和夫氏はその著書の中で「人間はただこの世に人格(人間性)の修行にきただけ」という趣旨のことを述べ、初期マルクスはその著書の中でさかんに「人間の天性」の実現という意味のことを述べています。
2.(人間的・社会的な)人格の形成と完成
一方で、「自分は何をしに人として生まれて来たのか?」と自問すれば、答えが「人間的・社会的な人格の形成」以外に見つからないように思えます。もちろん「完成」などほぼあり得ず、今後も「形成」過程でしかないのですが。
例えばマズローで言えばそれが「自己実現」になるのかも知れませんし、筆者流に言えば「人間的・社会的な目的の達成や価値の実現」ですが、もっと東洋的に言えば「徳を積む」という素朴な言葉のほうが似合う…。
さて「仕事」は、その中でも「それを通じて(人間的・社会的な)人格の形成」をするための「最も主要な場面」であるはずで、それがそうでなく「労務に服して賃金を得る」だけのものであってはならないはずです。
初期マルクス流に言えば「人間は人間の天性を実現するために『闘って』きた」というべきかも知れませんが、筆者流に言い直せば、「人間は人間性を実現するために『働いて』きた」のだと思います。
<追記事項20211104_マズローの「第六段階」>
マズローは人間の第五段階の欲求を「自己実現の欲求」として記述しましたが、最晩年の講演では第六段階として「プラトー_High Plateau」として指し示したそうです。
https://community.exawizards.com/aishinbun/20181212/
欲も得もない、善も悪もない、目的も手段もない、まるで老子の「無為自然」と同じような…幼いこどもたちが「遊ぶ」ような無心の快と楽があるような境地だと思うのです…。光に包まれたような幸福感と祝福感…。