20190407_リーガルマインド

<追記_20190412>

… 少なくとも人事労務の専門家と称する以上は、あたりまえに「法的な思考」が習慣化されていなければならないはずですが、現実には、特に弁護士以外の法律系の専門有資格者の中にさえ、論理も法理も通らない、自分の感情を優先させる人たちが多いと感じます。

 

1.論理に沿ってモノを言う。

 

 「1+1=2」が数理、「AならばB」が論理です。好悪損得にかかわらず、有利不利にかかわらず、これに外れることは通らない。また「それでも地球は回っている」のが経験則であってこれに異を唱えても通らない。

 

2.事実に基づいてモノを言う。

 

 個々人が知りうる事実は、現実の事実関係の、おそらく何分の1にも満たないはずです。自分がたまたま知り得たに過ぎない断片的な事実(または単なる伝聞)に基づいて安易にモノを言う態度は厳に慎むべきです。

 

3.感情を制御しながらにモノを言う。

 

 感情を「排除」せず、但し相手の感情は「受容」しつつ自分の感情は「制御」すること。「論理」や「法理」とともに「情理」を弁えること。いくら論理的・法律的に解決できてもそれが心情的な解決とは限らない。

 

4.法律に基づいてモノを言う。

 

<根拠を示してモノを言う>

 

 例えば他人「雇用契約関係上の精神的被害の賠償として50万円を支払え」と請求しようとする場合、その根拠や理由を「法律的に」説明できなければ、少なくとも裁判所には「取り合ってもらえない」のが普通でしょう。

  

 法律の条文は「Aならば(法律要件)Bである(法律効果)」という記述になっているのが一般的であって、自分の請求の根拠がどういう条文の法律要件に「当てはまるか」を説明しなければ期待する法律効果も得られないはずです。

 

<事実を示してモノを言う>

 

 相手方に例えば「不法行為(民法709条)に基づく50万円の損害賠償請求」を行なおうとする場合に、自分のどのような「権利又は法律上保護される利益」がどのようにどれだけ侵害されたかという事実関係を説明しなければなりません。

 

 相手が事実関係をそのまま認めれば問題ありませんが、そうでなければ(否認または争うのであれば)客観的な証拠を示して事実の存在を第三者にも分かるように説明できなければなりません。

 

<争点を示してモノを言う>

 

 当事者間で事実を認め合い、主張を譲り合うことで納得いく解決を得ること(和解)がいちばんですが、そうでない場合は斡旋や調停や裁判を通じて(しかし常に和解を最善の選択肢として残しながら)公平な第三者の判断を得るための努力が必要です。

 

 認め合い、譲り合う部分が多ければ多いほど、和解に達しやすいのは当然ですので、無益な争いによる時間の浪費を避けるためにも、何を認める・認めない、何を譲る・譲らないかという論点(争点)を判別しながらモノを言うのが良いと思います。

 

<心証を求めてモノを言う>

 

 斡旋や調停や裁判を通じて公平な第三者の判断を仰ぐことを選択するなら、当該第三者の「心証形成」を事実に基づいてひとつひとつ誠実かつ慎重に積み重ねることを主眼にすべきです。

 

 常に「公平な第三者の心証を有利に形成できるかどうか」を主眼に自分の言動や態度を「第三者目線で」慎重に選択すべきです。感情的なことや抽象的なこと、自己中心に過ぎることは、有利な心証形成にはあまり寄与しないでしょう。

 

<和解を求めてモノを言う>

 

 一般的な民事裁判が長引いても困らないのは裁判官など職業的な法律家だけであって、そうでない紛争当事者にとっては、裁判の長期化は時間と費用の負担になることのほうが多いと思います。また「勝訴」が必ずしも「満足」な解決をもたらすとも限りません。

 

 認めるところは認め、譲れるところは譲る、否認すべきところを否認し、争うべきところを争う、その上で公平な第三者の心証をひとつひとつ慎重・誠実に積み重ねて行く、その過程で和解の途を閉ざさない、という態度がより「満足」感の高い解決への近道です。

 

<追記事項_20190521>

 

 いわゆる「法曹以外の一般的職業人・社会人」に求められる程度の「リーガルマインド」とは「法律を知っている」ことではなく「法的な考え方を身に付けている(思考や判断の確固たる基準になっている)」ことであると筆者は信じます。

 

 たとえば、「個人の尊厳」という憲法上の大原則や、「疑わしきは罰せず(被告の有利に)」という刑事訴訟上の大原則は、「法律を知っている」かどうか以前の、歴史的で揺るぎのない共通の確信でなければならないはずです。

 

 そうした大原則がますます揺るぎのないものになっているなら、たとえば裁判員制度などの「法曹以外の一般人」が関与する諸制度は「是」とされるべきであり、それが疎かにされるような制度であれば「非」とされるべきだと筆者は考えます。

 

・例えば「公共の福祉」とはどのようなものか?