20190729_組織からの自由

 

01.組織とは何だろう。

 

 組織とは、共通の目的を達成し、共通の価値を実現しようとする人たちどうしの協働体です。当然ですが、組織構成員には、組織が達成しようとする目的や、組織が実現しようとする価値への自由な意思に基づくコミットメントが本来求められるはずです。

 

 法にいう「会社」の概念には、そもそも「雇用関係」は含まれていません。つまり「労務(指揮命令)に服して賃金を得る」人たちはもともと「会社」という組織の構成員としては想定されていないのです。

 

 ドラッカーの言う「組織」が、何となく現実感覚に合わないと感じるのは、ドラッカーの「組織」概念の中には、法にいう「会社」と同様に、「労務(指揮命令)に服して賃金を得る」人たちのことが含まれていないからかも知れません。 

  

02.誰も、「組織に属する」こと自体が目的ではないはず。

 

 新卒者なら「**会社に入社する」ことが目的になっても良いかも知れませんが、一人前の職業人なら、企業の事業の目的や価値が、自分の職業の目的や価値と一致するかどうかが「組織に属する」際の判断基準になるはずです。

 

03.「労務に服して賃金を得る」レベルに留まる限り、自由にはなれない。

 

 新人からしばらくは、文字どおり「労務(指揮命令)に服して賃金を得る」ことが「組織で仕事をする」ということの実態であるかも知れませんが、そうしているかぎりたとえ別の組織に移っても決して「組織」から自由にはなれません。

 

04.遂行レベル⇒判断レベル⇒指導レベル⇒管理レベル⇒経営レベルへ成長するはず。

 

 しかしその中でも働く人は、個別具体的な指示を受けて業務を遂行するレベルから自らの判断に基づいて業務を遂行するレベル、さらにその判断が信頼を得て指導力や管理力を発揮し、さらには事業経営の立場に立つ、というパスを経て力を付けて行くはずです。

 

05.成長すればするほど組織とますます「対等の」関係に立てるはず。

 

 また同時にその「職業的専門性」を高めていくなら、その人はますます「労務(=組織)に服して賃金を得る」立場から離れて、やがては組織といわば「対等」の関係(パートナーシップ)に立てるはずです。

 

06.組織に残るのも自由、組織を去るのも自由。 

 

 但し上記のような専門性も、その組織の中でのみ通用するようでは話にならず、やはり対外的な通用力を常に検証しておく必要があり、組織外からの市場的評価がある程度得られてはじめて「組織からの自由」の推進力になるのでしょう。

 

07.組織から自由な人たちがつくる組織(自由な組織)の原理。

 

 以上のようにして「組織からの自由」を獲得した人たち同士の「組織」こそが、ドラッカーの言う(本来の意味での)「組織」だろうと、筆者は思います。共通の目的の達成や価値の実現のためにお互いの財力・知力・労力・信用を出資し合う「組織」です。

 

<自由な組織の原理>

 ① 共通の目的の達成や価値の実現のために財力・知力・労力・信用を出資し合う。

 ② 内部的には雇用関係(=指揮命令に服して賃金を得る関係)は存在しない。

 ③ 構成員どうしの関係は「パートナーシップ」である。

 ④ リーダーシップもマネジメントもやがてその役割を終えて消滅する。

 ⑤ 軍隊や学校や企業のような組織の原理とは異なる。(法的には「組合」に近い。)

 ⑥ もし「利益の分配」が必要なら「出資」の価値と効果に応分すべきだろう。

 

08.組織(のムダ)からの自由

 

 極論すれば「仕事が遅い人・出来ない人」に合わせるのが「組織」なのか、「仕事が早い人・出来る人」を支援・後押しするのが「組織」なのか、前者は常にトップランナーが離脱する二流の組織になってしまうでしょう。

 

 リーダーが何ら為すところ(判断と選択、組織への方向付け、動機付け)無く、下情も下事にも通じず、メンバーへの余計な手出し・口出し、一般的抽象的あるべき論を、しかも事が済んでから言うようでは、その存在はマイナスでしかないと筆者は思います。

 

 組織も企業も、何らかの人間的・社会的価値の実現を目的とし意義とし、それにコミットし合う人たちどうしの協働体であるはずです。組織や企業にただ依属し、まるで「働かないことに動機付けられたように見える人たち」の集合体ではないはずです。

 

09.組織への自由または組織による自由

 

 組織も企業も、その存在や存続が目的なのではなく、自ら選び取った人間的・社会的諸価値を、その諸活動を通じて実現することが目的です。リーダーもメンバーも、その諸活動にそれぞれの立場でコミットすることがリーダーシップでありメンバーシップです。

 

 組織や企業の指揮命令のもとに労務に服し、その対価として賃金を受け取ることが目的なのでは決してない。よしんばやむを得ずそれに服する一定の期間があったとしても、決してそれに甘んじることなく、自らの知的資本の原始的蓄積を強かに行うべきです。

 

 その結果として、自らその組織や企業のメンバーやリーダーとして留まるもよし、自ら単独で、また同志を募って自ら組織や企業を起こして、新たな価値の実現のための活動に身を投じるのも選択のひとつだと思います。

 

10.筆者が「組織」を離れた理由

 

 筆者はいわゆる「大企業」の中で、管理職になるまでは、同期入社に遅れないように職位階層を登って行くのが大きなモチベーションのひとつでした。もっとも「いつの日かこの大組織のリーダーになってやろう」という野望があったわけではありません。

 

 そうではなくて、せっかく「企業の人事管理」に携わることになったのだから、自分なりに精いっぱい仕事をこなそうとしたし、その結果として一定の評価が得られ、職位階層を登って行けるならそれで十分でした。

 

 しかし、管理職になってしばらくして、大組織の中の事情には多少詳しくなったものの、自分自身がひとりの組織人としての栄達も望めず、ひとりの職業人として何ら独立も確立もできていないことに改めて気付いたのです。

 

 その後は大企業を定年前に早期退職し、職業としての「人事労務マネジメント」の確立を目指して、あえて異なる業種の人事労務管理部門の役職者の経験を経ながら(最後に経験したのが「病院」でした)、2018年4月に独立開業しました。

 

11.真に「組織的」であることを求めて…

 

 想えば筆者自身が所属し、経験したいくつかの「組織」の現実は、ドラッカーの言う「組織」の理念とは程遠いものでした。(それは筆者自身がドラッカーの言う「組織の構成員」の理念と程遠いものであった証左にすぎないのですが。)

 

 人間的社会的な目的や価値の共有も無く、その実現のための職業人的専門性もなく、ただ大組織に属して労務に服して賃金を得るだけの人たち(それは筆者自身)によって構成されるのが「組織」の現実の姿でした。

 

 おそらくドラッカーの言う「組織」(筆者が希求する組織)とは、「組織と個人」の関係で言えば、「組織と個人の間の支配・従属関係」関係でなく、「個人と個人が実現すべき目的や価値を共有化してパートナーシップを結び合う関係」なのだろうと思います。

 

 □ 組織的であることによってかえって仕事の正確・迅速・丁寧さが落ちていないか?

 □ 組織的であることによってかえって仕事上の責任の所在が曖昧になっていないか?

 □ 組織的であることによってかえって仕事ができる人の意欲を損なっていないか?

 □ 組織的であることによってかえって意思決定が遅れ、曖昧になっていないか?

 □ 組織的であることによってかえってP-D-C-Aが緩んでいないか?

 

12.「組織の中に自分を置く」のでなく「自分の中に組織を置く」こと

 

 「組織」と言ってもそこに「組織」そのものが実在するわけではありません。そこに実在するのは、「組織的に判断し、対応し、行動する人間諸個人」であり、そうした「人間諸個人の組織的な判断や対応や行動」です。

 

 そう考えてみるとそもそも「個人が組織に属する」という言い方もいわば「思考が逆転」しており、そこにこそ「個人と組織の疎外関係(人間のための組織が逆に組織のための人間となり、組織が人間を迫害さえする)」が成り立ってしまう原因があるのです。

 

 また、組織人事労務マネジメントの観点で言えば、個人が組織に依存し、帰責し、反対し、離反する…という「なし崩し的」な組織(マネジメント)の崩壊現象が生じてしまうのです。

 

 「組織的である」ということが、人間として・個人としての自主性や自律性までを組織に譲り渡してしまうことにしてはならない。あくまで当該個人の自主的・自律的な判断や対応や行動に「組織的であること」が内在しているのでなければならないと思います。

 

13.組織の中で「知的資本の原始的蓄積」を行うこと

 

 将来その組織のトップとして君臨し、その組織の人格と自分の人格を同一化するまでになるなら、それに向かって組織内力学を駆使するのも良いと思います。(筆者にはその能力も適性も意欲もありませんでしたが。)

 

 そうでないなら、せめて、その組織で働くことを通じて、賃金や余暇以外に、自分自身に得られる価値(例えば独立職業人として社会的にも通用する技術や見識)を大いに高め、やがてはそれを「資本」に当該組織から「離陸する」馬力と速度を蓄積すべきでしょう。

 

 それさえもなく、ただ、20年も30年も「組織に属し」「労務に服し」「賃金を得る」「余暇を得る」だけ(としか社会的に評価されない)なら、たとえその組織を「離脱」してもやがてはもとの「労務に服して賃金を得る」だけの事態に戻ってしまうでしょう。