20201101_全ては肯定に値する(かも、知れない。)

 

 コミュニケーションだって「肯定的受容」が第一歩ですので…より正確に言えば、全ては、それがどのようなファクトやロジックであっても、少なくとも一旦肯定的に受け入れる、ことが科学的にも人間的にも、より良いスタンスではないかと思います。

 

<追記事項_20210809>

 

 お互いに、それが「人間性」であると信じるなら、と言う意味における「人間性」を前提にする限り…それが最初から肯定一方や否定一方では成り立たない。おそらく、覆い悩む度に肯定と否定を繰り返すかも知れない。その繰り返しは、肯定すべきことかと…思います。

 

<追記事項_20210808>

 

 批判と否定の違いは?…ファクトやロジックに基づいているか否か、人間性を見失った議論になっていないかどうか、お互いに議論や思考の発展を望んでいるか否か、偏狭な独善性・排他性にとらわれていないかどうか…

 

<追記事項_20210802>

 

 … より正確には「全てのことがらは否定や批判に値する、しかし同時にまたそれ以上に肯定に値する」のではないか、と言うことです。否定も肯定も、それは単に入り口の違いなのかもしれませんので、それなら先ずは肯定から入るほうが良い…

 

 … いずれはお互いに議論や思考の発展を望むなら。「肯定」をベースに、「肯定」から入ってはどうですか、「否定しよう」「否定しよう」と思って聴いたり言ったりするのでなく、「肯定しよう」「肯定しよう」と思って聴いたり言ったりするほうが良いですよ…。

 

 … 放っておいても、人間は基本的に「自己肯定」に出来ているように感じます。それを少しでも否定しようとする相手を瞬く間に否定しようとする。…大切なことは、その段階の否定で終わるか、さらにその先の否定に(つまり肯定に)進むかだと思います。

 

<追記事項_20210731>

 

 ① ファクトもロジックも無視した(根も葉もない)「否定」には耐えられない…

 ② なぜことあるごとに「否定」から入ろうとするのでしょう?

 ③ 否定しようと思って聴けばそう聞こえるし、肯定しようと思って聴けばそう聞こえる

 

<追記事項_20210730>

 

 ① 「全て」という言葉は論理的には「100%、例外なく」という意味だろうと思います。

  その意味では必ずしも「全て」が肯定に値するわけではもちろんなく、筆者のそれは、

  単に「文学的な修飾語」でしかありません。

 

 ② 「批判」は「否定」ではないのか…確かに「全て」を肯定するなら「批判」は成り立

  たないでしょうから。ただし、「最初から相手に黒いペンキを塗っておいてから相手  

  を『黒い』と言い募る批判」が多いように感じます。

  

 ③ 「指導・育成」ということについても、その根底に「否定」があっては人は育たない

  でしょう。相手がどんなに未熟であり、または偏っていようが、その相手をどこまで

  肯定できるかが、同時にどこまで育成できるか、ということでしょう。

 

 ④ それでもなおかつ理不尽とも言えるほどの『否定的批判』さえをも『否定』せずに謙

  虚に受け容れることは筆者にできるでしょうか…より率直に言えば「どこまで否定せず

  にやれるか、とことん肯定的にやってみよう」というのが筆者の精一杯です。

  

… 筆者が「全ては肯定に値する」と言った意味は、概ね、上記のようなことです。どこまで「肯定」できるか分からないが、先ずは「否定」を先に立てず、とことんできるところまで寛容と謙虚と尊重、つまり「肯定の意」を尽くしてみようと思うのです。

 

<以下原文>

  

1.「解」は既に誰もが知っている。

 

 例えば人事という仕事は、働く人たちに関する実務・実学ですが、例えば人事評価は、それを貫くべきポリシーは「フェアである」ことだと筆者は思います。(科学的に「正しい」かどうかよりもむしろ人間的に「フェアである」かどうかです。)

  

 そして、何が「フェアである」かは、いわゆる「人事の専門家」などではなく、働く人たち自身の心のうちに問いかけて見れば分かる、そこで働く人たち自身が既に、何が自分たちの人間性により良くかなうものであるかを知っているはずです。

 

 「フェア」というのは、必ずしも、科学的な「正しさ」や、哲学的な「真理」でも、法律的な「合理性」でも、手続上の「適正さ」だけでもない。もっと現実の問題を解決する上での、働く人たち自身が既に知っている、「人間的」で「現実的」なものだと思います。

 

2.全ては肯定に値する。

  

 そして、上記の前提で、筆者は、「よほど人間性に反することでなければ…」という前提付きであるとしても、人間の営み(それぞれに感じ、思い、行うこと)の、ほとんど全ては「肯定に値する」と思うのです。

 

 それはむしろ「否定には謙虚かつ慎重でなければならない」と言い換えるほうが良いかも知れません。たとえ戦争や迫害や犯罪であっても…それがわれわれ人間自身の行いであることに鑑みれば…筆者にはそれを単に「否定」するだけでは何も解決しないとさえ思う…。

 

 「正しいこと(真理や正義)は必ずしもただひとつではない」とさえ筆者は思います。現に、どんな「独裁者」でも、歴史上の一定段階では、多くの国民自身が彼らの言動を「正しいもの(当為)」として受け入れたばかりではないか…。

 

3.「否定しない」でどこまでできるかやってみようと思う。

 

 末川博先生という昔日の高名な法学者に「戦争に(原爆に)正義も不義も無い。有無を言わさず否定すべきだ。」という趣旨の言葉があったように思います。運動論・政治論としては「その通り」だろうとおもいます。

 

 筆者のように「全ては肯定に値する」などとうそぶいていては、あっというまに権力の波に飲み込まれてしまうでしょう。「人間の天性」に反することに肯定の余地を残しては決してならず、何が「人間の天性」なのかは自分自身が知っているはずだと…

 

 その意味で、自らが知る「人間の天性」に反するものでない限りにおいて(それが「人間に天性」に反することに気付くことに後れを取らない限りにおいて)どこまで「否定しない」でやれるか、やれるところまでやってみようと、筆者は思います。

  

<蛇足の追記>

 

 「虚偽がもっともらしいのは、そこにかならずひとつ以上の真実が含まれているから。」だと思います。「全ては肯定に値する」などと脳天気なことを言っている間に、もっともらしい真実の衣の下に隠された虚偽や悪徳を見失わないようにしようと思います。

 

…全ては疑うに値する、のと同じかそれ以上に、全ては肯定に値する。 のではないか?

…視線を高く、身構えを低くすれば、ほぼ全てに学び、ほほ全てを活かすことができる。

…要は「是々非々」の、もうちょっとだけ「是々」寄りが良いでないかということ…?

…否定から入らない、否定で終わらない。

…批判を排除してはならない。