20210621_「闘う」のでなく「働く」

 

 なぜ「闘う」と言うのか。なぜ「働く」ではいけないのでしょうか。そのほうがカッコいいから、勇ましいからでしょうか。例えば「平和や自由や幸福のために闘う」のは、「平和や自由や幸福のために働く」ではいけないのでしょうか。

 

 「闘う」というのは、何と闘うのでしょうか。圧政や差別や偏狭とでしょうか。「闘う」というのは、誰と闘うのでしょうか。保守や反動や独裁とでしょうか。「人」や「敵」と闘い、それを打ち滅ぼすことで「平和や自由や幸福」が得られるのでしょうか。

 

・「闘う」と言うと、何か非日常的(絵空事)のような感じがします。

・「闘う」と言うと、自分じゃない(他人事)のようにさえ感じます。

・「闘う」と言うと、排他的(独善的)で、それこそ「争い」の原因ではないですか?

 

 それとも「闘う」というのは、今は昔の風景ですが、5月1日のメーデーの日だけ赤旗を掲げてデモをして気勢を上げることなのでしょうか。平和祈念式典に出て人類の恒久平和を叫ぶことなのでしょうか。

 

 否定はしませんが、もっと日常的で自前で当たり前で普遍的で一般的であること、日々の「働く」ということの既にそのなかにこそ、平和や自由や平等や幸福や…そうした人間的で社会的で歴史的な価値の実現が練り込まれていないと…と思うのです。