闘うのでなく働く

 

<中村哲医師に学ぶこと>

「外国の軍事面の援助は一切不要でございます。」

「陸上自衛隊の派遣は有害無益、百害あって一利なしというのが私たちの意見です。」

(2008年11月5日 参議院外交防衛委員会における参考人としての発言・議事録より。)

 

1.なぜわざわざ「闘う(戦う)」と言うのか?

 

 なぜ「闘う」と言うのか。なぜ「働く」ではいけないのでしょうか。そのほうがカッコいいから、勇ましいからでしょうか。例えば「平和や自由や幸福のために闘う」のは、「平和や自由や幸福のために働く」ではいけないのでしょうか。

 

 「闘う」というのは、何と闘うのでしょうか。圧政や差別や偏狭とでしょうか。「闘う」というのは、誰と闘うのでしょうか。保守や反動や独裁とでしょうか。「人」や「敵」と闘い、それを打ち滅ぼすことで「平和や自由や幸福」が得られるのでしょうか。

 

・「闘う」と言うと、何か非日常的(絵空事)のような感じがします。

・「闘う」と言うと、自分じゃない(他人事)のようにさえ感じます。

・「闘う」と言うと、排他的(独善的)で、それこそ「争い」の原因ではないですか?

 

 それとも「闘う」というのは、今は昔の風景ですが、5月1日のメーデーの日だけ赤旗を掲げてデモをして気勢を上げることなのでしょうか。平和祈念式典に出て人類の恒久平和を叫ぶことなのでしょうか。

 

2.もっと日常の、働くことを通じた目的や価値の実現を…

 

 否定はしませんが、もっと日常的で自前で当たり前で普遍的で一般的であること、日々の「働く」ということの既にそのなかにこそ、平和や自由や平等や幸福や…そうした人間的で社会的で歴史的な価値の実現が練り込まれていないと…と思うのです。

 

 働く人たちが働くことを通じて実現しようとしている目的や価値が、個々人の安楽で豊かな私生活であっても、筆者は否定しませんが、実社会では現に、それを捨ててもっと人間的・社会的な目的や価値の実現のために「働いて」いるひとたちが、多くおられます。

 

 そういう人たちの「働き」を見もしない、支援も連帯もせずに、例えば「平和」や「自由」のために「闘う(戦う)」などと地に足のつかないお題目を叫び立てるのは何とも気恥ずかしい以上の危なささえ感じます。