20210730_お互いの分かり合えなさからのリスタート

 

<追記事項_20210912>

 

 「なぜ分ってもらえない?」「なぜ分かり合えない?」…それは「他人」だから…?

そのとおりです。挨拶や返事や礼儀さえできない未熟性または退行性、凄まじいばかりの自己肯定に支配されたひとどうしが「分かり合える」はずもないです。

 

 せめて「相手の言葉で話す」ことをしてみてはどうでしょう。相手が「AはBですね。」と言っているのだから、いきなり「いや、CはDだ。」とは言わず、まずは「AがBである」ことについて話し合ってみませんか?

 

<以下原文>

 

① 分かってもらえない、分かり合えないもどかしさ…

 

… いろんな人(上司・同僚・部下・顧客…)と仕事をしていても、(…いや実は家族や友人と過ごしていてさえいても)、何とも言えない「分かり合えなさ」に、一種の、もどかしく、辛(つら)い思いをされることが多いのではないでしょうか?

 

 「なぜ分ってもらえないんだろう…」「なぜ分かり合えないんだろう…」…「なぜ?」ってそれは「他人(=自分以外の人」の「世界(ナラティブ)」だからです。「自分」自身のことでさえ「分からない」のに、「他人」のそれはそんなに簡単には分かりません。

 

 ひとつは「ことば」なのかも知れません、「価値観」、「文化」や「歴史」と言うと外れますでしょうか…。「きもち」や「こころ」、「感情」や「心情」ですか…。そのときのその場面でのその「きもち」や「こころ」…。

 

② お互いのナラティブに橋をかけ合う対話

 

 それを繋ぐ(両者間に橋を渡す)のは、やはり結局のところは「コミュニケーション(対話=ダイアローグ)」でしかなさそうです。もちろん「ことば」だけでなく、態度や表情など、気付きや想像も…つまり、その人との全コンタクトを通じて…

 

 そして、何度も「分かり合えなさ」から、やり直す・出直すしかないと思うんです。今日できなかったらまた明日、ずっとできないかも知れないけどもう一回。一期一会というけれど…「分かり合えなさ」からリスタートする以外にないかなあと、筆者は思うのです。

 

 お互いの「ナラティブ(世界)」をそのまま認知する。(否定しない。)

 ↓

 何かの機会にそのナラティブでその人がどんな言動や態度を選択するかを想像する。

 ↓

 想像通りならナラティブ理解度アップ、想像外ならナラティブ理解度マイナス。

 ↓

 ある程度得点できるようになったら、次の機会、一緒の場面で一緒に選択をしてみる。

 ↓

 その時にこそ対話する。

 ↓

 次の機会によりよい選択ができないかどうか対話しながら選択して見る。

 ↓

 得られた結果がより好ましいものだったかどうかその時にまた対話する…

 

<繰り返し>