<追記事項_20220309_ウクライナに歴史と現実の同時進行を見る思いがする>
ああ「また」だ…人間はあれほど歴史に学んだはずなのに、また現実として誤りを繰り返している…「正義」の名のもとに「戦争」や「迫害」や「破壊」や「殺戮」が行われている…
<追記事項_20210927_歴史はアカデミックよりストリート>
歴史はアカデミック(後付けの歴史解釈学)でもあると同時に(よりむしろ)、もっと実践的なストリート(大道、大道芸人の大道です。)として、現在と将来に向けて、学び、生かすべきものだと思います。
たとえば「明治維新」だって、「太平洋戦争」だって、当時の人たちが「どうにかこうにか何とかして生き延びるために選んできたのっぴきならない道(まさにストリート)」だったんだと思うのです。
道端(まさにストリート)の草を食んででも生き残ってきた人たち、道半ばで斃れた人たちの、生きる意地や知恵やエネルギーこそが「歴史」であり、そこから学ぶべきものだったはずです…
<追記事項_20210912>
自分では到底できもしないような一般的で抽象的なあるべき論に陥ることは、謙虚に「歴史に学ぶ」ということとは全く真逆の態度だと思います。「歴史」とはもっとのっぴきならない中での必死の選択であったはずです。
1.賢者は歴史に学ぶ…
「賢者は歴史に学ぶ(愚者は経験に学ぶ)」という歴史上の偉人の言葉がありますが、それはさすがに自らが歴史を創り出すほどの見識と力量のあった偉人ならではの言葉であったろうと思います。
歴史に学ぶ上では「第一次史料を重んじる」べきであることも、そのとおりだと思いますが、その第一次史料でさえ、本人によって書き換えられることが多く、「歴史に学ぶ」と言ってもそう簡単なことではなさそうです。
2.歴史は決して「ひとつ」ではない…
例えば先の太平洋戦争(大東亜戦争)の歴史は、「一部軍部の暴走」として語られることが多いと思うのですが、「アジアを欧米の植民地支配から解放する」という意義があったと指摘する識者も少なくありません。
現在の社会や国家の現実と同じように、歴史上の社会や国家が「ひとつ」の史実や史料や観点から語り尽くせるはずもなく、「歴史に学ぶ」と言っても、それはおそらく「現在に学ぶ」ことよりよほど難しいだろうと思います。
3.何のために「歴史に学ぶ」のか?
また、「歴史に学ぶ」ことの意義は、当時の判断や選択や行動が「誤っていた(~すべきだった)」などと後から評論家のように言うことではなく、自分自身が現実の中でどういう判断と選択と行動を行うかだと思います。
人間の判断や選択や行動は、おそらく、完全合理的などではありえず、当時のあらゆる状況や条件においては、常に制限的で部分的に合理的であったのだろうと思います。
4.おそらく歴史上の誤りは少なくとも部分的には繰り返されるだろう…
戦争(武力の行使)によって(国家間・民族間の紛争を)解決するという判断と選択と行動を二度と決してしない、という「約束」は、未だに世界の(実は我が国の)標準にさえなっていません。
おそらく自分(たち)は、今後、自身が現実に国家間・民族間の紛争に巻き込まれたときに、自己保全的・自己肯定的な言い訳や逃げ口上を唱えながら、武力の行使という判断と選択と行動を再びしてしまうのかも知れません。
5.実は未だほとんど歴史に学んでいない…
自分(たち)自身の歴史上の判断と選択と行動は、既に行なってきてしまっているのかも知れません。武力の行使による紛争可決という選択を、自分(たち)自身は、真に歴史に学ぶことなく、今までにすでに行っている…。
「戦争」だけでなく、「貧富」という歴史にも、自分(たち)は、まだほとんど学べていない。「地球温暖化」という歴史にも学ばないまま判断と選択と行動を行い、後世からその「誤り」を学ばれてしまうのでしょうか…
<追記事項‗20210824‗人事は…いまだに多くを経験に学んでしまっている?>
人事マネジメントはいくらかは歴史に学び、科学(行動科学や社会心理学…)に学ぶところが多いとは思うのですが、やはり多くはそれぞれの経験に学ぶことが現実には多いように思います。