1.学校秀才や評論家だけではものごとが解決しない
事が済んだ後にあれこれ体系的な理論を展開し「~すべきだった」と言うのは、半分役に立たない。将来に向けて「あるべき論」を説くのは良いが、過去に向けて「あるべき」論を説いて批判しても半分はもう役に立たない。
先の太平洋戦争が当時の我が国の「国策の誤り」であったことは現政権下でも認める通りであり、当時においてさえその誤りを指摘する人は多かったはずです。むしろ当の軍部の中にこそ、そうした人は多かったはずです。
ではなぜその英知が現実の国策に反映されなかったのか、その英知を持った人たちが少数で無力だったからか、なぜ多数で有力たりえなかったのか、要するに、アカデミックの力がストリートの力に圧倒されたからでしょうか…?
2.完璧な理論より直観と確率
国が戦争を選ぶのは「戦う前から負けるのがわかっていた」と後付けで言えるほど簡単で単純なものでもなかったはず。「ひょっとしたら勝てるかも知れない」でもなく「戦えば勝機は必ずある」という強い信念だったはず。
根本的には明治維新以来の「軍事立国」という選択肢…当時のドイツなら「技術立国」、米国なら「経済立国」であり得たはず…「軍事立国」がやはり「のっぴきならない」現実の選択肢だったのか…
アカデミックは多くの場合後付けの一般論でしかなく、現実に処するための見識(予見)でしかない。現実は、当の本人たちが「感じて・信じて・行なう」ところのもっとストリート上のバイタルなパワーなしに動かない…
<追記事項_20211005>
迅速で積極果敢な行動には直観が大いにモノを言うとは思いますが、もちろんそれはファクトとデータと経験と…結局はアカデミックに裏付けられた論理や見識や卓見や先見があってこそ「確率」の高い「「直観(直観)」たりうる…。
3.学びて行わざれば…
結局は「学びて思わざれば則ち罔し、思いて学ばざれば則ち殆し」です。先賢の教えや歴史の教訓に学ぶことの上に、自らの試行錯誤と七転八倒と四苦八苦と赤恥青恥からストリートに学ぶことではじめて「パワー」になるのでしょう。
そしてその「パワー」はひとりのものだけでなく、多数の有力なものでなければ現実は動かない。アカデミックは決してストリートを軽んじず、ストリートは決してアカデミックを軽んじてはならず「共同戦線」以外に現実解がない…
<つづく>