20220705 改
「一緒に働く」ってどういうことなんだろう…それが筆者の最近の「課題」です。「一緒に働く」とは、「共通的な価値を実現するために協働すること」だと思うのですが、現実にはいろんな「不協和音(不調和音)」が絶えません…。
上司と部下の間のこと、同僚どうしのいがみ合い、部下の動機付けや成長促進、パワハラ問題、職場の中の困った人たち、組織としての意欲や規律や効率のこと…いろんなご相談を受けますが、筆者の回答の前提は常に「一緒に働く」ということです。
結論から言えば、「一緒に働く」人として、お互いに「否定・無視・非難・呵責・排除」しようとせず「受容・理解・尊重・支援・連携」することなのですが…では具体的には何をどう理解してどう対応すれば良いでしょうか…。
<追記事項>筆者自身の問題として
筆者自身は「労務に服して賃金を得る」ということ以外に何ら知識も経験も技術もないままに何十年もの長い間「人と一緒に働く」ということが苦手で、結局はそれを定年まで克服できないままようやく人事コンサルとして独立開業した身の上です。
今では自分が出来もしなかったことを偉そうに人に向かって説いてる状態なのですが、多くの経営者や管理者の悩み事や困り事に共通するのは、要するに「一緒に働く」ということが上手く行っていない(下手で苦手)ということに尽きる…?
<追記事項>マネジメントの問題として
マネジメントの本質は自己マネジメントだと思います。またその究極は…
01_「いろんな人」と「一緒に働く」ということの複雑さと困難さ
学校でも、年齢層が同じで共通項の多いはずの級友たちと「一緒に学ぶ」ことは難しかったはずですが、「職場」にはさらに「いろんな人」がいて、お互いに「上手く関わり」ながら「一緒に働く」ことは、ますます難しいことになりそうです。
学校では基本的に「教師と生徒」というフラットで均質的な関係ですが、「職場」では「上司と部下」「先輩や同僚や後輩」という関係、さらには「消費者や取引先」等との多層的で複雑な関係があります。
また学校では、基本的には「お互いの学習度を高める」ことが主眼でしたが、「職場」では、個々人の仕事力とともに職場としてのお互いの関りを通じて「職場の仕事力を高める」ことが主眼ですから、お互いの関り方はより複雑で困難です。
<追記>
ちなみに「家庭」はどのような「場」であり「関係」であり、何を「主眼」とするのでしょうか…「一緒に暮らす」場であり、血族または姻族の関係であり、「愛」を基本にお互いの「幸福度を高める」ことを主眼とすると言うべきでしょうか?
では「地域」は「社会」は「国家」は…と視野を拡げていくと、結局のところ、われわれが学級で学び、職場で働き、家庭で暮らすことも、われわれが「一緒に生きる」ということなのだと筆者は思うのです。
誰一人として「たった一人では生きられない」のであって、「一緒に人間らしく生きる」ことこそが、人間の本質だと思うのです。残念ながら「国家」や「人類」は未だ「貧困」や「戦争」の渦中にあるのですが…。
<さらに追記>
筆者自身振り返って、人と「一緒に働く」ことが下手だったなあ…と今さらながらに反省します。特に会社勤めを振り返って…もっと謙虚に人と「一緒に働く」ことが出来ていれば…その後の有り様もずいぶん違っていたはずです。
会社勤めを辞めて独立開業してからもなお、人と「一緒に働く」ことが下手で苦手で苦痛でしかたがない、というのがむしろ本音です。それは要するに「結局は人より自分を優先する」ことから生じる苦痛です。自らが招く苦痛です…。
結局は「人や相手の優先度を上げる(自分自身の優先度を(相対的に)下げる)」か「人や相手との間でもう少し距離(や時間)を取る」ということでしかその苦痛を克服する術がないようには思います。
02_「一緒に働く」のは共通的な価値を協働的に実現するため…
われわれが働いているのは、ただ単に「賃金を得る」とか「利益を得る」ためだけではない。例えば「真・善・美」や「自由・平和・幸福」という、人間や社会にとっての「価値を実現する」ために「一緒に働く」のだと思うのです。
個々の職業人・社会人としての「成長」や、いわゆる「自己実現」も崇高な価値のひとつですが、しかし人間にとって「成長」も「実現」も、「自己」単独ではありえず、「相互の成長と共通的価値の実現」が「一緒に働く」という意味でしょう。
03_採用の本質は「この人となら一緒に働きたいと思える人」を選ぶこと…
筆者は何十年も企業の人事に関わり、その中で何十年も人の採用に関わって来て思うのですが、採用の「極意」は、「この人となら一緒に働きたいと思える人」を選ぶことです。「この人となら」と思える人を、責任をもって選ぶべきです。
この人となら「相互の成長と共通的価値」が「一緒に働く」ことを通じて実現できる、という人を選ぶべきなのです。採用から退職までの人事マネジメントにおいて、この「採用」のプロセスを絶対に疎かにしてはならない。
もう少し理論的・技術的に言えば、筆記・面接・観察という技法を通じて以下の4つの適性の有無、採用の可否を判断する、ということですが、基本は「この人となら一緒に働きたいと思える人」を、企業が見識と自信と責任をもって選ぶことです。
□ 資質適性 … その候補者が「どのような人か」ということ。
□ 能力適性 … その候補者が「何ができる人か」ということ。
□ 指向適性 … その候補者が「何をしたいと思っている人か」ということ。
□ 行動適性 … その候補者が「どうのような行動をする人か」ということ。
また、採用選考における「ネガティブチェック」を行うことです。採用選考のプロセスを通じて観察される言動や態度の上で、極端な偏りや問題がみられないかどうか、それは採用後の指導や成長で解決できるかどうかの見極めが必要です。
<参考ページ>
https://www.hrms-jp.com/saiyo-1/
採用とは、本来、「一緒に働く」人を選ぶことです。「この人となら一緒に働きたいと思える人」を、自分(企業)が見識と自信と責任をもって選ぶことです。それがそうなっていないとしたら、採用自体を見直すべきなのです。
04_現実的には上司と同僚と部下は「自分で選べない」、それでも「一緒に働く」…
しかし実際には、「この人となら一緒に働きたいと思える人」を自分で選べるわけではなく、「こういう人とは一緒に働きたくない」としか思えない人とどうすれば「一緒に働く」ことができるか…ということのほうが重要な問題でしょう。
「会社が選んだのだから自分には責任が無い」と言って知らん顔することは(職場のリーダーや管理者ならなおさら)出来ないでしょう。会社を責めても本人を責めても、欲求不満の軽減にはなっても、問題の本質は何も解決しません。
採用は「企業(組織)」の力量(採用力)と責任の問題です。しかし「企業(組織)」を構成する個々人の責任ではない、とは言えません。少なくとも経営者や管理職には「雇用と育成の責任」があり、一般職員にも「協働責任」があるはずです。
05_「できれば一緒に働きたくない人」たち。それでも「一緒に働く」…
現実には「できれば一緒に働きたくない人」が採用選考を通過して職場に配属されてくることが少なくありません。「試用期間制度」が上手く機能していないことも多く、「観察・育成期間」を徒過してしまうことも少なくありません。
それでもそうした人たちを無視したり拒否したり責めたり無理を強いしたり排除したりするのでなく、「それでもそうした人たちと一緒に働くにはどうすれば良いか?」ということのほうが日々現実的な職場の課題なのだと思います。
「進化の歴史は絶滅の歴史だ」とでも言わんばかりの優勝劣敗主義・弱肉強食主義が「資本の論理」なのかも知れませんが、「一緒に働く人たち」にとってそれを「職場の論理」になってしまうことが、人間にとって「良い」ことではありません。
例えば下記のような(例)の人たちと、「それでも一緒に働く」としたら、重要なことは、次のとおりだと、筆者は考えます。
ア)その人たちを否定しないこと
イ)その人たちを無視しないこと
ウ)その人たちを非難しないこと
エ)その人たちを呵責しないこと
オ)その人たちを排除しないこと
カ)その人たちを受容すること
キ)その人たちを理解すること
ク)その人たちを尊重すること
ケ)その人たちを支援すること
コ)その人たちと連携すること
06_「論理が通らない」人たち。それでも「一緒に働く」としたら…
「1+1=2」という「数理」や「AならばBである」という「論理」の積み上げができないように見える。「いつ・誰が・何を・なぜ・どのように・何のために…」…と順序立てて論理的に話せない・聞けない・考えない・書けない…
「言動や態度の合理的選択」…生じる結果を合理的に予測しながら自身の言動や態度を適切に選択できないように見える。相手も場所も弁えず、その時の自分の感情や都合で不合理な選択を無意識・無自覚にしてしまい、不本意な結果を生じてしまう…
上記のような人たちを「否定・無視・非難・呵責・排除」せず、「受容・理解・尊重・支援・連携」しながら「それでも一緒に働く」としたら…
どんなに複雑で高度に見える「合理性」や「論理性」も、「1+1=2」という数理や「AならばB」という論理の積み重ねと組み合わせであり、ITの世界で言えば「0か1か」の積み重ねと組み合わせでしかありません。
「好き嫌い」や「苦手意識」にかかわらず、「1+1=2」という数理や「AならばB」という論理や「0か1か」という原理から始める以外になく、「単純」や「初歩」から順を追って「複雑」や「高度」に達する以外に道はないのです。
一見「合理性」や「論理性」に「欠ける」ように見える人たちでも、もっとよく見れば「単純」や「初歩」から順を追って「複雑」や「高度」に至る途中のどこかで「止まっている(困っている)」だけなのかも知れません。
その人の「好き嫌い」や「苦手意識」を一旦措き、その人が「止まっている(困っている)」時空に一緒に身を置いて「あともう一押し」すること、「受容・理解・尊重・支援・連携」しながら「それでも一緒に働く」ことにつながるのだと思います。
「言動や態度の合理的選択」が出来ず、結局は不本意な結果を招く不合理な選択をしてしまう人たちについては、そうした結果が生じる前に、「その時、その場」で別のより良い言動や態度の選択ができるように方向づけ・動機付け・支援すること…
それを「二人羽織」とか「同行二人」と言いすが、言おうとするところは同じです。その人がどんな事態に直面し、どんな刺激を受け、どんな「思いや考え」を生じ、どんな「言動や態度」を選択するかを同時・同行的に疑似体験することです。
例えば「モノの言い方」ひとつでも、「別の言い方」をすれば「別の結果」が生じることを一緒に体験し、そこから学習してもらう…。「思いや考え」の発生と「言動や態度」の選択の間に、「思考回路」をつくる作業です。
07_「EQに欠ける」人たち。それでも「一緒に働く」としたら…
IQ(知能)は高くても、EQ(自他の感情や情緒、それに基づく言動や態度を適切にコントロールする能力)が欠落しているように見える。円滑な会話がスムーズに成り立ちにくく、良好な人間関係を築きにくく、職場の理解や協力を得にくい…
上記のような人たちを「否定・無視・非難・呵責・排除」せず、「受容・理解・尊重・支援・連携」しながら「それでも一緒に働く」としたら…
IQ(知能)は高くても、EQ(自他の感情や情緒への配慮)が欠落している人についても同じです。その言動や態度によって、相手や周囲の人が、どんな思いや考えを生じ、どんな言動や態度を選択し、どんな結果を生じるかを同時に体験する。
相手や周囲の思いや考え、言動や態度の選択は、自身にも思い当たるところがあるはずです。そこで一旦立ち止まり、自分の言動や態度の選択が、相手や周囲にどんな思いや考えを生じさせ、どんな言動や態度を選択させたかを同時・疑似体験する。
08_「仕事に動機付けらない」人たち。それでも「一緒に働く」としたら…
その人がその仕事を指向していない、その人自身が「適性がない」と思っている。その職場に「自分の居場所が無い」と感じている。また、いわば「働くこと」よりも「休むこと(働かないこと)」に強く動機付けられているように見える人たち…
仕事に目的意識を持てない、自分で考えないし、類推も応用もできない。指示が無ければ動けない(動かない)、または指示があっても動けない(動かない)。「一緒に働く」ということ自体に適していないように見える人たち…
上記のような人たちを「否定・無視・非難・呵責・排除」せず、「受容・理解・尊重・支援・連携」しながら「それでも一緒に働く」としたら…
仕事に指向性や目的観がない人でも、ではその人自身が「どうしたい・どうありたい」のかを多少なりとも「語る」ことはできるはず。それは「仕事の仕方」や「別の仕事」や「仕事以外の何か」なのかは、問いかけ、聴いてみないと分かりません。
その場合も、その人自身が「どうしたい・どうありたい」と思っていることを「仕事をしない」ことではなく「もっと別の仕事や、仕事の仕方や、仕事への思いや考えで実現に近づける」ことを、疑似的・同時的・同行的に体験してみる…
自分では考えず、類推も応用もできない、指示が無ければ動けず、指示があっても動けない人がいるとしたら…やはり指示の意味や目的を、「語り合う」ことを通じて多少なりとも「共有化」する以外にないでしょう。
09_「仕事の基本」が身についていない人たち。それも「一緒に働く」としたら…
職場は人間どうしの関係の場なのですから最低限でも「挨拶・返事・礼儀」や「報告・連絡・相談」を欠かしてはならず、「正確・迅速・丁寧」や「品質・納期・コスト」が仕事の基本です。自分自身を仕事に動機付けて成長させるのも基本…
でも現実には、いわゆる「管理職」の中にさえ、「挨拶・返事・礼儀」や「報告・連絡・相談」や「正確・迅速・丁寧」や「品質・納期・コスト」や「仕事への動機付けと自己成長」に欠ける人たちが少なくありません。
上記のような人たちを「否定・無視・非難・呵責・排除」せず、「受容・理解・尊重・支援・連携」しながら「それでも一緒に働く」としたら…
「挨拶・返事・礼儀」を欠いたり「報告・連絡・相談」を欠いたりすれば相手や周囲にどんな思いや考えが生じ、どんな行動や態度の選択が行われ、どんな結果が生じるか…これも疑似的・同時的・同行的に体験してみる以外にないでしょう。
「挨拶・返事・礼儀」や「報告・連絡・相談」は、お互いの「習慣」の問題です。「当たり前」化すれば「苦も無く」できることです。相手や周囲がどうであれ、自分自身の「習慣」の問題です。
仕事をする上での「正確・迅速・丁寧」や「品質・納期・コスト」の問題も、お互いの仕事の「習慣」の問題です。仕事の「能力や適性」の問題よりも、仕事の「仕方や習慣」の問題です。その人の問題と言うより、お互いの、職場の問題です。
10_「コミュニケーションがとれない」人たち。それでも「一緒に働く」としたら…
「挨拶・返事・礼儀」を欠いたり顕著な「発達障がい」が見られる場合を除いても、「上手くコミュニケーションがとれない」人は少なくありません。そういう人たちは総じて「相手への視点」や「相手からの視点」を欠くのだろうと思います。
例えば「AはBですか?」と、聞いているのに「CはDです」と答えていては会話が成り立ちません。また「5W2H(特に「何が?」や「誰が?」や「なぜ?」)」をいちいち聞き返し、言い返さなければならないようでは会話がすすみません。
相手に質問や発言の間も与えず(待てず)一方的にまくしたてても会話がかみ合わず、お互いに理解も合意もないまま時間を空費してしまいます。また、相手の言葉を使わずに自分の言葉だけで語ろうとするので相手は「置いてけぼり」になります。
「何を言うかよりどう伝えるかが大事」であり、「自分が言いたいことが相手の口から出てくるように会話を進める」「相手のキーワードをキャッチして共有(共用・援用)しながら会話する」…と一般的・抽象的あるべき論を言っても伝わらない…。
上記のような人たちを「否定・無視・非難・呵責・排除」せず、「受容・理解・尊重・支援・連携」しながら「それでも一緒に働く」としたら…
お互いに「話がかみ合わない」状態から「話がかみ合う」状態になるには時間がかかるのが普通です。何度もあきらめずに「かみ合わない会話」をしているうちに、徐々にお互いの「文脈」や「前提」や「意図」を「共有」できてくるようになれば…
相手が「言っていること」そのものより「言いたいこと」「言おうとすること」への気づきや想像や配慮があれば、多少相手の言葉が足りず、不統一や矛盾があっても、聴き手がそれを補って聴けば…
11_「パーソナリティーの偏りがある」人たち。それでも「一緒に働く」としたら…
性格的な偏りの観点で言えば、①極端な外向性または内向性、②極端な神経症的傾向、③極端な開放性または閉鎖性、④極端な協調性の無さ、⑤極端に怠惰、(および⑥刺激への藩王の極端な強さ・弱さ・繊細さ・鈍感さ…)が見られる人たち…
パーソナリティー障がいの観点で言えば、①奇妙で風変りな(妄想・統合失調性)、②演技的・感情的な(境界・自己愛・反社会・演技性)、不安で内向的(依存・強迫・回避性)等の障がいの傾向が疑われる…
発達障害の観点で言えば、①広範性発達障害(自閉性障がい・アスペルガー症候群等、②学習障害(読字・書字・算数等)、③注意欠陥・多動性障がい(不注意・多動性・衝動性等)等の傾向が疑われる…
未熟性の観点で言えば、①極端に受動的、②極端な他者依存、③きわめて限定的な行動様式、④散漫な興味・関心、⑤きわめて近視眼的な将来展望、⑥極点に従属的、⑦希薄な自己意識等の未熟性の傾向が疑われる…
精神疾患の観点で言えば、「自己肯定感の喪失、感情や情緒の不安定、敏感、頑固・融通がきかなさ」から「うつ、躁うつ、強迫性障害、統合失調症、摂食障害、睡眠障害、薬物依存、浪費等」の症状や兆候が見られる…
上記のような人たちを「否定・無視・非難・呵責・排除」せず、「受容・理解・尊重・支援・連携」しながら「それでも一緒に働く」としたら…
先ずはその人の傾向や特徴や偏りを「理解」することです。「ああ、そういうことだったのか」「もしかしたらそうなのかも知れない」と「理解」するだけで、「否定・無視・非難・呵責・排除」の感情は多少なりとも治まるでしょう。
その人に「自己認識」を求めることは、専門家でないと難しいかも知れません。「一緒に働く」立場としては、その人の「問題」となる言動や態度が生じる原因や回路を「理解」して専門家に繋ぐ配慮をすべきです。
12_「一緒に働く人たち」を否定・無視・非難・呵責・排除しようとしないこと
「職場を困らせている人」は、実は「職場で困っている人」だと、筆者は思います。資質や能力や指向や行動の特性や適性が、「職場」の「標準的な期待感(「あたりまえ」や「ふつう」という感覚)」と合わずに「困っている人たち」なのです。
パーソナリティー障がいや発達障害や未熟性や精神疾患をかかえて困っている人たちです。本人も周囲も、そうとは気づかないまま、否定・無視・非難・呵責・排除しようとして、結局は自分たちの職場を居づらく・働きにくくさせているだけ…
<追記事項:退職が解になるとき…>
生物で言えばコロニー(人間で言えば職場や企業)からの離脱(他のコロニーへの移動)が自他のコロニーの保全や生物全体の存続に繋がるのと同じです。生物の場合はその際に生死をかけた争いが起きるのかも知れませんが…。
人事実務的に言えば「自然退職」や「自主退職」がそれであってほしい。せめて「合意退職」でありたい。決して「解雇」だけを解にはしたくない。文字通りそれは「力を尽くしてもなお力が及ばなかった(真にやむを得ない)」場合に限定したい。
13_「一緒に働く人たち」として受容・理解・尊重・支援・連携するということ
問題を抱え、分からず、困っているのに、受容も理解も尊重も支援も連携もされない人の心の状態を想像できるでしょうか…どれほどつらいことでしょうか…。ますます適性を失い、偏りや障がいを深め、自らを責め、傷つけてしまうでしょう。
マザー・テレサは、「それでも人を愛しなさい」と言ったはずです。「愛の対極は憎悪ではなく無視だ」と言ったはずです。職場は「聖地」だとまでは言いませんが決して「戦地」ではなく、そうさせてはならないと筆者は信じます。
<追記事項:テクニカルな意味で「一緒に働く」ということ>
それはちょうどサッカーゲームでボールのパスを上手に繋ぎ合わせてゴールに達するようなものだと思います。自分の仕事の最適なアウトプットが相手の仕事の最適なインプットになるように仕事をつなぎ合わせること。
人と仕事、仕事と人、仕事を通じた人と人の、最適な組み合わせと最適な連携が、人と仕事をマネジメントする、ということでしょう。あらゆる場面でいつ誰にどんなパスを繋げば最高のゴールになるかを、選手自身が判断し、実行できるチーム…
14_それでも同じ職場で「一緒に働く」ことを諦めざるをえないとき…
現実には採用に意を尽くしても、資質・能力・指向・行動適性に欠けていたり、性格的な偏りがあったり、パーソナリティー障がいや発達障がいが疑われ、未熟性が顕著に見られたり、精神疾患に苦しむ人たちと「一緒に働く」ことは避けられない。
それでもなお、その人たちを受容・理解・尊重・支援・連携しようと意を尽くしてもなお否定・無視・非難・呵責・排除が先に立ってしまう…。「一緒に働く」ことも、お互いにそろそろ「限界」に達しつつあるのかも知れません。
かく言う筆者の場合、その「限界」を感じるのはむしろ早い(低い)ほうだと自覚しており、それは端的に言うと「お互いをリスペクトできないようなら(リスペクトできるうちに)別れたほうが良い」という一種の諦観です。
ましてや「職場」はあくまでお互いの「部分社会」であって、共通の価値を協働して実現しようとする場なのだから、お互いに「生きる場はここだけではない」し、「否定・無視・非難・呵責・排除」しあってまで「生きる」べき場でもない…。
マザーテレサはそれでも「人を愛しなさい」と言い、孔子は「其れ、恕か」と言うでしょうが、筆者なら「それでも一緒に生きなさい」とは言っても「それでも一緒に働きなさい」とは決して言えません。
お互いをリスペクトできないようなら別れたほうが良いし「お互いをリスペクトできるうちに別れたほうが良いと思います。「一緒に働く」ことを諦めてもなお、この地上で「一緒に生きる」人として「愛や恕やリスペクト」を失ってはならない。
15_人事労務管理の基盤を「一緒に働く」ということに置くこと…
人事労務管理実務としては「職場」を「否定・無視・非難・呵責・排除」の場ではなく、共通的な価値を協働的に実現する「受容・理解・尊重・支援・連携」の場として維持する役割や責務があります。
「職場」で働く人たちの言動や態度に「否定・無視・非難・呵責・排除」の兆候や傾向が見られたら、それがその「職場」に蔓延して「職場」が分裂・崩壊する前に、手を打つのは人事労務管理として当然です。
お互いに「否定・無視・非難・呵責・排除」し合おうとする人たちを「受容・理解・尊重・支援・連携」し合えるように、動機付け、関係付ける…人への「愛」や「恕」や「リスペクト」をしっかりとベースに据えて…
それでもなお、力尽くして力及ばず、「否定・無視・非難・呵責・排除」を抑えきれないなら(それが真に「やむを得ない事由」と言えるなら)人事労務管理実務として「退職や解雇」も「解」のひとつだと思います。
そしてそれを選択する場合でもなお、同じ人間どうしとしての「愛」や「恕」や「リスペクト」を失ってはならない。「泣いて馬謖を斬る」という言葉は、「泣いて」に重心があるのだろうと思います。
<追記事項_20220707>
「一緒に働く」ということを基盤の上で「採用選考」や「目標管理」や「成長促進」や「人事評価」や「報酬管理」や「労務管理」や「退職管理」という人事労務マネジメントの各プロセスの構築と運用を見直してみることは有意義だと思います。
16_基本的な「考え方」として(順不同のまとめ)
(1)「否定・無視・非難・呵責・排除」しようとしても問題は解決しない。職場を「受容・理解・尊重・支援・連携」の場として維持しようとするのでなければ、問題は「決裂」することがあっても「解決」はしない。
(2)「職場」は時間的にも空間的にも部分社会でしかない。そこ(それ)が人生の全てではない、と言えることは大きな救いでさえある。しかしだからと言ってそこでの人間どうしの人間的な関わり合いが「部分的」であっては問題は解決しない。
(3)「進化の歴史は絶滅の歴史」だとして「組織の進化」を冷徹に考えるなら「排除の論理」も「進化の論理」たりうるかも知れない。競争原理や優勝劣敗が組織の強さだと言うのかも知れない。しかしわれわれは「一緒に働く」仲間だ…。
(4)「一緒に働く」ということは、「共通的な価値を実現するために協働する」ということ。社会全体がその協働体であるはずで、その意味でわれわれは一緒に生きるのであり一緒に働く。お互いにより良く生きるためにお互いにより良く働く。
(5)「理解」し合うことと「共感」し合うことなしには「協働」は成り立たない。「理解」は「理」、「共感」は「情」の問題。「理」と「情」を両翼に、正面に「意(Will)」を掲げ、尾翼の「愛(「それでも人を愛しなさい」の「愛」)で推進する。
(6)「愛」で大きく包み込めば、人間どうしの諸問題は必ず解決できる。「寄せて見れば悲劇」でも「引いて見れば喜劇」でさえある。「愛すべきは人間」だと思う。「困らせている人」は「困っている人」だ。もっと視野を拡げて見てあげてほしい。
(7)「ナラティブ」と言って良い。「分かりあう」とはお互いの「ナラティブ」に「対話」を通じて「橋を架ける」ことだ。相手の言葉を使わなければ相手には伝わらない。共通の言葉を獲得するには時間がかかる。
(8)「退職」や「解雇」も「部分社会」たる「企業」や「職場」における「現実解」のひとつです。ただし、「意」と「理」と「情」と「愛」を「尽くす」ことなく、それを「唯一解」にしてはならない。
17_いろんな人と「一緒に働く」ということ (追記の雑感)
(1)「十人十色」の言葉がある通り、例えば十人の部下を眺めてみても、その特徴や偏りや特性はいろいろ。資質にも能力にも指向にも行動にも、まさに十人十色の特徴や偏りや特性が見られます。
(2)同じ刺激に対する反応の「感度」も違い、反応の「強さ」も違い、反応の「方法」も違う。持って生まれたもの、その後の「環境」や、そこで「学習」されたことも違う。得意も苦手もあり、感じ、思い、重んじ、目指すことも違う…。
(3)そうした「違い」はあって当然、違いは間違いではなく、「でなければならない」ことでもない。「違い」こそ活動や存続や進化の原動力。「否定・無視・非難・呵責・排除」の対象ではなく「受容・理解・尊重・支援・連携」の対象だと思う。
18_利己の人と利他の人
(1)「利己」的傾向の強さと「利他」的傾向の強さも、重要な違いのひとつ。どちらが先天的でも後天的でもなく、どちらが良いとも悪いともいえず、重なりも交わりもあり、原因にも結果にもなる。全く別物でもなく同一人中に混在・併存しうる。
(2)「利」も経済的な「利」とは限らない。個人の都合や便利や快楽であるかも知れないし、社会的・人類的な価値であるかも知れない。「善」や「正」かも知れず、「理」や「情」や「恕」や「愛」なのかも知れない。
(3)資本主義の精神が「利己」の精神であり、社会主義の精神が「利他」の精神であるとも限らない。「利他」が同時に「利己」であることが「理想」に思えるが、「一緒に働く」うえでは「利己」がエンジン、「利他」がハンドルなのかも…。
19_労働への動機付けの根源
(1)生物にとって「労働」への意欲や動機付けの根源は「食物」(または生存)への動機付けや意欲だと思う。人間にとってもその歴史の長い間、「食物」や「生存」への意欲や動機付けが、「労働」への意欲や動機付けの根源であったはず。
(2)ところが近代以降の「労働」への意欲や動機付けは、主に「賃金」に置き換わってしまった。それが「進化」なのかも知れないが、「労働」そのものへの、もっと根源的な意欲や動機付けからは、かえって「遠ざかって」しまったようにも見える。
(3)「一緒に働く」上では「賃金」が、意欲や動機付けの共通の要因のひとつであることは今後も長い間変わらないでしょう。「労務に服して賃金を得る」限りにおいては「その通り」なのですが、それが「本質」だとは筆者には思えません。
(4)むしろ「生存」そのもの。もっと言えば、お互いの、「より良き(人間らしい)生存」に向けた意欲や動機付けが「一緒に働く」ことの根源的でバイタルな意欲や動機付けで会って良いように思うのですが…。
20_世代間で「一緒に働く」ということ
(まだつづくの?)