20220615記
1.人間の根底にある凄まじいばかりの「生存欲求」と「自己保全」の欲求
マズローの言説を待つまでもなく、人間の根底には、凄まじいばかりの「生存欲求」があり、それはまさに「生存競争」として、究極的には「他者の生存を否定してでも自らの生存を保とう」とするほどに「凄まじい」ものだと思います。
それは例えば「戦争」を思い浮かべれば誰でも分かることです。営利企業間の競争が「生存競争」と言われることがありますが、相手を市場から廃業に追い込むほどの競争であれば確かに「生き残りをかけた競争」と言えるのでしょう。
「職場」の安全や安心が基本的に最優先されるべきなのは当然であって、「戦場」や「パニックの現場」でもない限り、自分自身の安全も安心もろくに保てないような「職場」で人を仕事に動機付けて仕事の成果を上げることはできません。
2.次いで強固なのは「自己肯定」「自己尊厳」の欲求
「生存欲求」や「自己保全」の欲求に次いで強固な欲求は「自己肯定」や「自己尊厳」だろうと思います。「否定」されることは苦しい。他者からも自分自身からも自らを「否定」され、「自己肯定」感を持てずに悩み苦しんでいる人は少なくない。
おそらく「自己成長」とは「自己否定」と「自己肯定」の繰り返しなのでしょうが、そうだとしても両者間にはバランスが必要であって、「自己肯定」が強すぎても「自己否定」が強すぎても「自己成長」を阻害または停止させてしまうでしょう。
「パワハラ」の多くは、職場で「優越的」な立場にいる者による、「育成」や「指導」に名を借りた「他者否定」(実はその者自身の「自己肯定」や「自己尊厳」)が、「劣後的」な立場にいる者の「自己肯定」や「自己尊厳」感を侵奪することなのでしょう。
3.「親和」や「実現」は「自己」ではなく「相互」でなければ成り立たない。
マズローの各段階の欲求に、いずれも「自己」という言葉が冠されていることに、筆者はまだ納得が行きません。(原典ではいずれも「self」という言葉が冠されているらしいいので決して「間違い」ではないのでしょうけれど…。)
しかしながらそもそも「社会的存在」である人間にとって、その「生存」でさえ自己単独で成り立つはずが無く、現実にそれが成り立ちうるのは「戦場」のようなところに限られる(「職場」を「戦場」だと言うなら別ですが…)でしょう。
「親和」が自己単独で成り立たないのは当然で、自己単独の「尊厳」は「空恐ろしく」さえあり、自己単独の「実現」は、天才でも無理、人間であるかぎりいずれの段階の欲求も「自己」単独ではなく人間「相互」でなければ成り立たないと思います。
4.「パワハラ」の本質的問題
「職場」は「戦場」でも「パニックの現場」でもないのだから、お互いに「自己肯定」「自己尊厳」「自己実現」などと「自己」だけを優先するのでなく、「相互肯定」「相互尊厳」「相互実現」として「相互」を前提とすべきです。
「パワハラ問題」の多くは、パワハラする側と、パワハラされる側との、少なくとも筆者の眼には、「凄まじい」ばかりの(「相互」の視点を見失った))「自己肯定」や「自己尊厳」や「自己実現」のぶつかり合いにしか見えません。
またひとりの社会人・職業人に対して「育成」や「指導」を言うこと自体、その人の「自己尊厳」感への侵害ではないかとさえ筆者は思います。せめて「成長の支援」と言えないか、と筆者はいつも思います。