20220815記
毎年この時期(8月)になると、広島や長崎の平和記念式典で、少年少女が「私たちひとりひとりが人を憎むとか、人に復讐するという気持ちを捨てることができれば、戦争を無くすことができる」というメッセージを発してくれます。
おそらくそれを言う少年少女自身も、おそらくそれを聞く大人たちも、それを祈念し、それが痛いほど(文字通り「死ぬほど」)分かっていて現実には未だにそう出来ないのはなぜか…「それが現実だから」では少年少女への回答にはならない…。
1)それは、例えば「憎むこと」や「復讐すること」が、例えば「怒ること」や「悲しむこと」と同じように、人間を人間たらしめている根源的な要素であるから…?(それを無くしてしまったら、むしろ「人間性」を失ってしまうから?)
2)それは、例えば「憎むこと」や「復讐すること」が、例えば「不正を憎む」とか「不正義との戦い」と言うように、「正しい」こととして行われる場合が多いから…?(「正しい」ことほど人に人を虐げやすくするから?)
孔子はひとりの高弟の、「それが無ければ人間では無くなってしまうほど人間にとって大切なことは何ですか?」という問いかけに「其れ、恕(じょ)か」と言ったそうです。また、マザーテレサは「それでも人を愛しなさい」と言った…。
孔子の「恕」という言葉は、単に「思いやり」と言う以上に、もっと、人のつらさ、悲しみ、痛み…を深く共有すること、その上で、人を受け入れ、赦すこと、つまりは人として人を愛することなのだろうと思います。
マザーテレサの「それでも」という言葉は、たとえそれが不正や不当や不義であったとしても…という意味なのだろうと思います。「それでも」人は人を愛せるのか…それができれば、冒頭の少年少女が言う通り、戦争は起きないでしょう…。
イエスは「復讐するは我にあり」と言ってくれましたが、それは、人が人への復讐を捨てきれないでいるという「罪」を、自分一人が背負っていく…という意味なのだろうと思います。
3)筆者自身は孔子にもマザーテレサにもイエスにも到底なれませんが、それに学び、共感し、そうはさせない諸現実(多くは自己都合)との間で四苦八苦し、悪戦苦闘し、試行錯誤してその様子を少年少女に見てもらうことはできると思います。