20220819記
かつて日本の帝国主義は、植民地の人たちからその民族の言葉や文化や歴史や誇りを侵奪しようとしました。国内で行われた民族差別も「人から言葉(文化・歴史・誇り・人格・幸福)を奪おうとする」大罪であったと思います。
なおこれは筆者の卑近な経験ですが、あるとき、ある部下に、仕事上の失敗の原因を「理路整然(?)」と「追及」していたところ、その部下が、まさに文字通り「言葉を失う」瞬間を目のあたりにして、「追及」の手を止めたことがあります。
もしそのとき筆者が「追及」を止めなければ、その部下はきっと精神疾患に陥っていたはずです。筆者による「攻撃」が、部下が部下自身に対して行う「攻撃」に転化され、やがてその部下の「こころ」は壊れてしまっていただろうと思うのです。
また別の部下は、筆者に「私たちの幸福を壊さないようにしてください。」という言葉を残して退職しました。当時の筆者は「パフォーマンス型」のマネジメントをもって自任しているつもりでしたので、この言葉は強い反省材料になりました。
いわゆる「パワハラ」は、何ともおぞましいことのひとつですが、それは、おそらくその「被害者」から、「言葉(その人の文化・歴史・誇り・人格・幸福)を奪う」行いなのだろうと思います。
筆者の眼には、いわゆる「パワハラの訴え」が、まるでひとつの「武器」のように映ります。「言葉(文化・歴史・誇り・人格・幸福)」を奪われようとした人たちが、「それはパワハラだ」という言葉を武器に立ち上がる…。
人が「それはパワハラだ」という言葉を人に投げつけてくるのは、それがその人の精いっぱいの言葉だからなのだと思います。そのままではそれ以外の、もっと人間的で豊かな言葉を「パワハラ」という行いによって奪われてしまうと感じたから…。
「対話」とは、相手から「言葉」を奪うことでは全くなく、いかに多くの「言葉」を引き出すかだと思います。もっと人間らしく豊かな言葉を…。その人の文化や歴史や誇りや人格や幸福から発する言葉を聴き出し、共有することだと思います…。
<追記事項:「言葉」に関する自省的雑感>
□ 人の「言葉」を引き出すこと
□ 人の「言葉」を遮らないこと
□ 人に「言葉」を押し付けないこと
□ 人の「言葉」を使うこと
□ 人を「言葉」で抑圧したり攻撃したりしないこと
□ 人が「言葉」を失う瞬間を見逃さないこと
□ 人に「言葉」で不快感を与えないこと
□ 人を「言葉」で否定しないこと
<追記事項 20220903>
人から言葉を奪うことは、その人の自由を奪い、その人の人格を否定することにもなると思います。犯罪による処罰の場合でさえ、意に反する苦役を強いられ、自由を制限されることはあっても、人格を否定することは許されない。
たとえ犯罪者であっても、その人から言葉を奪い、自由を奪い、人格を否定していては、その人を懲らしめることさえできないのに、その人を導く(その人からより良い言動や態度を引き出す)ことは決して出来ないのだろうと思います。