20190714_「俺が、俺が」という気持ちが…

 

1.いくつになっても抑えきれない「俺が、俺が」という気持ち

 

 筆者自身、この年になっても「俺が、俺が」という、自己肯定・自己保全・自己本位・自己中心・自己尊厳・自己優位・自己有能・自己実現…の「気持ち」が抑えきれず、あたり前の結果として少なくともその分だけ相手や周囲の「気持ち」を損ねてしまいます。

 

 しかし「俺が、俺が」は同時に「彼が、彼が」の存在なしには成り立たず、「彼が、彼が」を否定するかぎり、単なる自己中心・自己本位として蔑まれ、見捨てられるに違いありません。

 

2.「組織ごと」は、「俺が、俺が」の譲り合いと認め合い

 

 自分の自由は相手や周囲の自由があってこその自由であり、そうでない自由は所詮自己本位・自己中心の自由でしかない。自己肯定も自己保全も自己尊厳も自己実現も、相手や周囲のそれがあってこその相互肯定・相互保全・相互尊厳・相互実現であるはずです。

 

 また、組織的活動とは、例えば自由や平和や幸福などを含む、人間的・社会的な諸価値の実現のために、多くの人たちがそれぞれの「俺が、俺が」を持ち寄り、認め合い、譲り合い、担い合うことです。

 

3.百万人といえども我行かむ…

 

 「唯一無二の絶対的な真理や正義」というもの自体、実はその前提(主語)に「俺が、俺が」という「気持ち」が少しでもあるなら、それはあくまで「未検証の仮説」であり「相対的な真理」であると断言して良い。

 

 但し、たとえ同時代の人たちのいく百万の無理解や無関心や無責任に怯むことなく、自ら「信じる」ところの「真理や正義」を貫くことこそが、実は人間の歴史を拓くパイオニアであった例は数多い。 

 

 また、「組織」が(「国家」や「社会」でさえ!)常に無誤謬でありうるはずもなく、まさに「ひとりひとりが(=つまり俺が俺が)」その信じるところ(人間性に照らして真実や正義と信じるところ)を判断し・選択し・行動することこそ貴重です。

 

4.「組織の中に自分を置く」のでなく「自分の中に組織を置く」…

 

 つまり.「組織の中に自分を置く」から、組織や国家や社会の「誤謬」に気付かない。また、組織のせいにして自分の思考や判断や行動の手間や労苦を省こうとするし、単なる不満分子に脱する。

 

「自分の中に組織を置く」のでなければ、本当は人間的な、同時に組織的・社会的な思考や判断や行動もとれないし、おそらく組織レベル・国家レベル・社会レベルの理解も支持も協力も得られない。

 

5.「自分は精神が好きだ」

 

 「自分は精神が好きだ」というのは若き大杉栄の言葉です。おそらく精神の絶対的な無碍自由を言ったものだろうと思います。そうして彼はその自由を阻む、あらゆるものを否定し破壊・排除しようとしたのでしょう。

 

 例えば、感じること・考えること・信じることは「精神」の自由の代表例であり、それを阻むこと、それを停止すること・怠たること、諦めること・手放すこと・を、組織や国家や社会のせいにして(そこに安住して、実は自ら進んで)選んではならない。

 

 それを表現することでさえ、さらに実行ことには…おそらくいくつもの壁があるでしょう。それでもなお自分を組織・国家・社会の中に置くのでなく、自分の中に組織・国家・社会を置いて判断・選択・行動すること以外に、その壁を突破する途は無いのと思います。