20210803_組織は(常に)合理的に誤る

 

1.太平洋戦争は「国策」の誤り?

 

 太平洋戦争(大東亜戦争)におけるわが国の壊滅的敗北は、現政府の公式見解では「国策を誤った」という表現で一応落ち着いているように見え、筆者はその言葉には違和感が無いのですが…

 

 何をどう誤ったか…歴史をファクトに忠実に、ロジックに謙虚に追いかけ、偏りなく学ぼうとするなら、「何をなぜどう誤ったか」という点の検証は必須ですよね…決して「不合理に誤った」わけではなく「合理的に誤った」のだろうと、筆者は思います。

 

 例えば「彼我の戦力や経済力の差を無視した?」そんな「不合理」な誤りでは決してなかったはずです。「外交努力を怠った?」「軍部が独走した?」「むしろ米国が仕掛けた?」やはり「現実」はそれだけではない…もっと「合理的な(やむを得ない)」誤りだった…。

 

2.そのとき・その場面・その立場ではそれがもっとも(少なくとも限定的・部分的には)合理的だった…

 

 そのとき・その場面・その立場に、自分自身がおかれたとしたらどんな判断や選択や行為をしただろう…そこを悩みきり、考えきり、言い切り、やり切るのでなければ、後からきてもっともらしい、できもしない一般的で抽象的な無責任なあるべき論でしかありません。

 

 かつまた「そのとき、その場面、その立場」というのは、それに至る時間的・空間的・歴史的な関係性のうえでの「とき・場面・立場」なのであって、「その」単独ではなく、時間軸・空間軸・歴史軸の中でこそはじめての「そこ」なのです。

 

 つまり極めて時間軸から見ても空間軸から見ても人間軸から見ても歴史軸から見ても、ごく限定的であること、部分的であること、たとえそこに「合理性」があったとしても(あったに違いないが)それはごく部分的で限定的ではあった…

 

  そうであってもなお別の、より良い判断や選択や行為が成り立ち得たのか…単に「今なら

言える」だけのことではないのか…だとしたら相変わらず、再び「その」とき・場面・立場に自分(たち)がおかれたら必ずや再び「最も合理的な誤り」を犯すに違いありません。

 

3.「歴史に学ぶ」とは?…歴史を創り出すほどの力量がなければ…

 

 「賢者は歴史に学ぶ」という言葉が他の誰の言葉より「重い」のは、彼自身が歴史を創り出すほどの見識や力量を持っていたからだろうと思います。その実践なしに過去に向かって言うばかりでは、何ら「歴史に学ぶ」ことにはならないでしょう…。

 

 ものごとが済んだ後から、もっともらしいこと(当時の諸状況をふまえず、一般的で抽象的な在るべき論)を言うのは、少しも「歴史に学ぶ」ことにはなっていないと思います。少なくとも、自分自身の判断と選択と実践を通じて、自分自身の歴史を創るのでなければ…。

 

 組織が「誤る」のは、組織が組織であるがゆえに、その組織を構成する個々人が、その場その場での、自分自身、自分たち自身の判断と選択と実践を通じて歴史を創り出すことをある意味(集団的サボタージュの意味)で「サボタージュ」してしまうからだと思います。

 

<追記事項_20210815_自分たちの組織の永続的で民主主義的な自己革新>

 

 民主主義を多数決主義にしてはならない。やはり民主主義の根本原理は「個々人の尊厳」だと思います。「個々人の…」とは、「現実的な存在としての個々人」という意味です。個々人の尊厳を、「多数決原理」で侵さないことが民主主義の根本原理だと思います。

 

 その意味で民主主義は成熟の過程にはあり得ても(ひょっとしたら後退の過程にあるのかも知れず…)決して完成されておらず、常に「個々人の尊厳」を、多数決原理が侵すことがないように常に自己革新をしなければならないのだろうと思います。

 

 言い換えれば、多くの組織において、「多数」が未だ「個々人の尊厳」を根本原理に為し得ていない、という点に「組織が誤る」原点があるのだと思います。その組織の有り様は、その組織の最底辺で最も虐げられている人たちの有り様に反映されているはずです。

 

 資本主義社会でも社会主義社会でも、その最底辺で最も貧しく、虐げられている人たちの有り様を見れば、その社会の有り様(その社会がどんな社会か、人間にとって「良い」社会なのかどうか、どうあるべきか、何をすべきか)が分かると思います。

 

 それは、それぞれのレベルの「組織」における、人間的・社会的な「富(価値)」の生産と配分の原理の問題だと思います。国家・社会レベルでの実現を他力本願的に待つより、自分(たち)の「組織」の価値の生産と配分の原理を現実に変えて見せることだと思います。

 

<追記事項_20210815_貧富の差さえ克服できない社会はいまだに「(経済)合理的」な誤りをおかし続けている…>

 

 「豊かになれる者から(順に)豊かになる」…たしか鄧小平氏の言葉だったと思います。その後の中国社会は未だその順番が社会の最底辺にまでは廻って来ていないようです。…ということは、中国社会でさえ、いまだ社会主義社会にもなり切れていない…

 

<続く>