1.言葉がいちばんの嘘つき
英国の動物行動学者デズモンドモリスは、著書『マンウォッチング』の中で人間の七つの動作を信頼できる順にあげています。
1:自律神経信号(汗をかく、顔色が変わるなど)
2:下肢信号(脚の動き、足先の向きなど)
3:体幹(胴体・上肢)信号(姿勢、上肢の揺れなど)
4:意味のわからない手振り(無意識な手振り、無意識に手を隠すしぐさなど)
5.意味のわかる手振り
6:顔の表情
7:言語(言葉)
つまり、「言葉がいちばんの嘘つき」だということです。同じ「言葉」の中にも「あまり意識せずふともらした言葉」や「矛盾のある言葉」のほうが「まだ正直」で、筆者のような「言葉の信徒」は、実はいちばんの嘘つきということになります。
国会の政府答弁や選挙の政見放送で(または採用面接で?)準備された原稿をそのまま読み上げることほど胡散臭いものはありません。流暢に読み上げられるよりはつっかえながら、間違いながら読んでくれるほうがよほど正直なのかも知れません。
また、この説によれば「目は口ほどにモノを言う」よりは「目は口以上にモノを言う」と言うべきでしょう。本人の無意識な(微かな、抑えようとして抑えきれない)視線の動きや表情の変化のほうがよほど正直なのだと思います。
「嘘は固まる」とは、嘘を嘘で塗り固めて容易に剝がれなくなる。ただし「嘘の中にはいくつかの真実が含まれる」ので「嘘が真実らしく聞こえる」のでしょう。また「嘘も方便」ですから「わざわざ問題にしなくて良い」という嘘もあるでしょう。
「人事」は「刑事」ではないので、人の嘘を見破るプロではありませんが、採用面接だけでなく、例えば職員どうしの「いざこざ」に介入せざるをえないとき「一方を聞いて沙汰をする」わけにはいかないときに必要な心得のひとつだと思います。
<追記事項:「嘘をつくのはなんて不効率なんだろう」>
嘘やごまかしは、自分にも相手にも余計な時間やエネルギーを使わせるからです。嘘もごまかしもない、隠しも飾りも無い、実直そのものの活動がいちばん効率的なのだろうと思います。
<追記事項:「はじめに言葉ありき」「愛は言葉だ」とは…?>
言葉がいちばん噓つきだとしたら、「はじめに言葉ありき」(新約聖書 )という言葉はいったい「どうなる」のでしょうか。人間の歴史も文化も、実は「言葉」から始まったにではないか…。
また作家の太宰治は「愛は言葉だ。言葉が無くなりゃ、同時にこの中に、愛だって無くなるんだ。」(「新ハムレット」)と書きましたが、やはり「言葉」だけで語られる愛は儚く危ういものだというべきでしょうか…。
真実や真心が「言葉」に載って伝わってくることが多いが、そうでないことも多い。できる限り「言葉」を信じたいが、「言葉」に裏切られ、騙されることも多い。しかしそれはやむを得ないことなのでしょう。
2.「対話」を通じた「関係づくり」と「問題解決」
「人事」と「刑事」の大きな違いのひとつは、直接的な対象者の殆どすべてが善良な勤労者かそうでないかの違いだと思います。また、「問題」が起きるずっと前から(採用の時期から)対象者と「関係」づくりができるかできないかの違いです。
「犯罪」を通じた権力関係ではなく、「仕事」を通じた協働関係であること。「部分的人間関係(つまり「人」と「それ」の関係)」に留まらず「全体的人間関係(つまり「人」と「人」の関係)」を築きやすいという点です。
問題は、問題が起きる前にこそ問題があり、解決がある…人事の問題のほとんどはそこで働く人たちの関係の問題です。そうした関係は、問題が起きる前(時間的・意味的な前)の対話を通じてこそ解決できる…。
「対話」そのものが成り立たない(成り立っていない)場合があります。対立・嫌悪・格差・不信・不快・虚偽・強制・抑圧・萎縮・回避・拒絶・無視・不実・誤解…現実には「対話」以前に「関係」が成り立っていないことも多いようです。
それでも…「対話」、つまり「言葉」のやり取りを通じて「関係」を修復したり構築したりする以外にはなく、それを通じて「問題」を解決する以外にはないだろうと思います。ただし、「言葉がいちばんの嘘つき」だということを肝に銘じて。
<追記事項:言葉が足りないだけ、なのかも知れない。>
「言葉は嘘つき」だと決めてかかる前に、お互いに「言葉が足りない・知らない・言葉が不適切」だけなのかも知れません。「コミュニケーション」とは「その時にそのひと言が言えるかどうか?」「何を言うかよりどう言うか?」なので…。
「言葉で思いが伝わる」なら多くの悩みは無くなる。相手は相手自身の「言葉」でなければ「理解」しない。「伝える」ということは、何度も何度も「言葉」のやりとりをしながら相手の「言葉」を掴み出して、それを使って「語り合う」ことです。
「言葉が空々しい」のは、実行が伴わないからで、その人の日常的な、現実の行動や態度をよく見れば、ずいぶんと空々しく響く場合も多いでしょう。自分がしてもいないことや出来もしないことを偉そうに「かくあるべし」と言うのは控えたい。
「言葉が暴力を振るう」場合もあるので、たとえそれが「正しい」ことだと本人が信じていても、「正しいことほど人を虐げやすい」のが現実なので、「正しい」ことを言うときほど相手の状況をよく見て上手く伝える努力と工夫が必要です。
「言葉の理」だけで全てはを解決しない。「理」だけで人は動かない。正面に「意」側面に「理と情」、背後に「愛」が必要。「愛」とは「それでも人を愛しなさい」(マザーテレサ)の「愛」です。筆者はそれを「リスペクト」だとも思う…。
「理」が無ければ言葉は通じないが、「理」だけでは言葉は通じない。「意」や「情」や「愛」(または「リスペクト」)が無ければ「言葉」に込めたつもりの「真実」も「真意」も伝わらない。
「言葉がいちばんの嘘つき」ではありますが、人間どうしの「関係」を取り結ぶためには「言葉がいちばんの働き者」なのかも知れません…どう使うかは、ほんとうに「使いよう」だと思います。