コミュニケーションの力こそ仕事の力だと思います。
コミュニケーションを通じて信頼関係を築くことです。
人間関係の力が仕事の力です。
<追記事項_20220309>
相手や周囲はその人の「言動」や「態度」からその人の「人格」を想像しているに過ぎない。
その人の「人格」と言ってもそこにその人の「人格」そのものが実在するわけではなく、そこに実在するのはその人の「言動」や「態度」であり、それを通じて相手や周囲が形成した、その人の「人格」の「想像図(イメージ)」です。
どのような状況において、何に対して、どのような「言動」や「態度」を「選ぶ」か、それはどういう「感じ」や「思い」の現れで、どういう「回路」をたどって現れ出てくるのか…それを相手や周囲が「想像」するだけのことです。
1.「何を言うか」より「どう言うか」が大事
① 思うことと言うことの間には間隔や時間や回路があった方が良い。
心の内には様々な思いが渦巻き、その中には感情的なこと、合理性や倫理性を大きく逸脱することも多く、それを言動や態度に表出するまでの間に人それぞれの距離や時間や回路があってこそ自他ともに平穏が保たれているのでしょう。
思うことと行うこと(言動や態度、何を言うかよりどう言うか)の間には、適切な間隔や時間や回路があったほうが良い。特に感情的な思いとその表出との間には、相手の立場や感情や視点を含みこむだけの、間隔や時間や回路が必要。
② 何を言うかより、誰が言うか、どう言うかが大事
「何を言うか」より「誰が言うか」「誰に言うか」「いつ言うか」「どう言うか」です。相手に「どう伝わるか」=「何を言うか」×「誰が言うか」×「どう言うか」であり、そのための「修正回路」もいくつかあったほうが良いでしょう。
相手がどのような人であっても、相手の「自己尊厳」を損なってしまっては、その人とのベーシックな人間関係さえ築きようがなく、それどころか相手は相手自身の「自己保全」をかけて、回避・退行・攻撃などの反応を起こすでしょう。
③ 「ものの言い方」にその人の人格性や価値観や関係性が現れる
同じ内容を伝えるのに「どう言うか(どのようなものの言い方をするか)」によって相手への伝わり方は全く違います。それだけではなく、「ものの言い方」によって、その人の人格性や価値観が図らずも伝わってしまうことがあります。
また、相手との関係性、つまり、その人が相手のことをどのように思っているか、尊卑や好悪の間感情が伝わってしまうことがあります。まさに「ものの言い方」は、その人を映し出す鏡のようなものなのです。
2.ものの言い方
① 挨拶と礼儀は誰に対しても分け隔てなく
… 相手と自分との「上下関係」によって挨拶や礼儀を「使い分ける」ことはナンセンス。(新入社員のころ、本社ビルの役員フロアで出会った役員氏に挨拶をして無視されたことにある意味の「あほらしさ」を感じたのが原体験です。)
どんな相手との関係もリスペクト無しには成り立たない、というのが筆者の確信であり、相手に対する心のうちにあるリスペクトの有無は、ほんのちょっとしたものの言い方や態度や表情を通じて確実に相手に伝わってしまいます。
② 感情を上手くコントロールする
人の感情の起伏は、まるで池の水面に起きるさざ波のように、ほんのちょっとした刺激に対してきわめて微妙に反応するものであり、おそらくそれをいちいちものの言い方や態度や表情に出していては相手も疲れるでしょう。
特に「怒りに任せてものを言う」ことは、それによってさらに自身の怒りを増幅させてしまうことになりがちなので「IQよりもEQが大事」と自らに言い聞かせて、相手と自分の感情を上手く処理しながらものを言うことが肝要です。
③ 否定しない
頭から否定しない、否定から入らない。会話の中に相手やものごとへのネガティブな要素(ものの言い方や態度や表情)が多ければ多いほどコミュニケーションは阻害され、ポジティブな要素が多いほどコミュニケーションは促進れます。
頭ごなしに、またはいちいちネガティブに反応していたのでは会話も進みません。本質的でないことは聞き流し、見のがす」ことも必要です。争いのあることは事実関係を共有し、争点を明らかにし、互譲して和解することが肝要です。
④ 抽象化に逃げ込まない。
現場で生起している現実を知らず、調べもせず、現実と格闘したこともない立場で、「~したほうが良い」などと空虚で抽象的な「あるべき論」を言う人は、単なる「評論家」であって、実務家とは相容れない存在です。
筆者自身、現在でも、事実をよく調べもしないで、仮説をよく検証もしないで、実務的に通用しないもっともらしい抽象論、あるべき論を弄する愚に陥らないように、常に実践の立場から、常に現場の視点から、ものを言いたい…。
⑤ あとで批判しない。
軍国主義が去った後に軍国主義を批判するのは簡単です。ひとがものごとに悪戦苦闘している最中には知らぬ顔をしながら、ものごとの成就失敗が定まってから知ったかぶりで批判をするのはたちの悪い評論家でしかありません。
「何を言うか」より「どう言うか」「いつ言うか」「誰が言うか」「誰に言うか」も大事です。肯定的なことはいつ誰が誰に言っても害悪にはなりませんが、否定的なこと、批判的なことは、時機と立場と相手を弁えるべきでしょう。
<人間関係の基本はリスペクト>
1.其れ、恕か
孔子が第一の高弟に「人間にとって、それをなくしては人間でなくなるほど大切なことは何ですか?」と問われて、「其れ恕か」(「恕(じょ)」=簡単に言えば人間的な「思いやり」)と答えたそうです。
子貢問ひて曰く、 「一言(いちげん)にして以て 終身之を行ふ可き者有りや」 子曰く、 「其れ恕か、己の欲せざる所は、人に施すこと勿 れ」(論語)。「恕」とは要するに「思いやり」だというのが一般的な解釈です。
「恕」という言葉は、「宥恕」や「寛恕」ということ、つまり正否や理非だけではない、もっと深く広い豊かな人間的な言動や態度の選択、およびそのもととなる考え方や処し方や人間性を言っているのだろうと思います。
2.人間相互の尊厳と親和(リスペクト)
人間相互の関係をより良く保つ上で「終身之を行ふ可き」ところは何でしょうか。筆者なら「相互の尊厳と親和(リスペクト)」と答えます。マズローのいう「尊厳」および「親和」という言葉に「相互の」を冠したものです。
人間にとって「それ無しには存立できない」ほど重要なことはマズローの言う通り「生存・安全・親和・尊厳・実現」だとしても、それらは「自己」単独ではなく「相互」でしか成り立たない(「己所不欲、勿施於人」)はずです。
「人間関係が上手く行かない」という悩み事や困り事は、多くの人たちに共通する事項でしょうが、筆者自身は「相手への尊厳、相手との親和」を基本方針にして、自分の対人的な言動や態度を選択したいと思います。
<追記事項>
・見ざる聞かざる言わざる>
「見ざる言わざる聞かざる」というと日光東照宮の有名な彫刻を思い浮かべるのですが、この言葉のもともとの意味は一般的な理解とは少し違うようです(筆者は次のように勝手に解釈しています)。
・人の短所を見ざる。
人にはそれぞれ、他の人に見せたくない欠点も短所もあるのだから、それをわざわざ見つけ出して論う必要もない。本人が気付いている場合はなおさら、気付いていない場合でも気付いてくれるまで、見て見ぬふりをするのが良い。
・人の無知を言わず。
人にはそれぞれ、知っていることや知らないことがあって当然です。興味も関心も違うのですから。人がそれを知らないからと言って、そのことをことさら言う必要はない。お互いいに、共に知るところになれば良いのです。
・人の誹りを聞かず。
人にはそれぞれ、事情も都合もあるし、感じも思いもある。人を悪く言おうとすればきりがないのです。円満な人間関係を築こうとするなら「悪く思わず、悪く言わず」が第一だと思います。
<敢えて付け加えるなら…>
・人の思いを拒まず。
人にはそれぞれ、見えている事実があり、それぞれの価値観もあり、考えがある。それを「否定」してかかってはどんな話も続かない。「共有」が難しくても「共存」(お互いに認知し、尊重し合う。)はできるはず。
・人の愛するところを愛する。
その人を愛されようと思うなら、その人を愛することは勿論、その人が愛するところ(その人が愛すること、その人が愛するもの、その人が愛するもの)を、その人が愛するのと同じように愛することだと思います。
・人の気付かざるを責めず。
同じことでも違いを感じる人と感じない人がいます。いわゆる「繊細な人」は、相手と自分の感覚の微細な違いにいら立つことも多いでしょう。「どうして気付いてくれないのか」と相手を責めても、自分を苦しめるだけ…。
1.無道人之短 無説己之長
人の短をいうこと無かれ、己の長を説くこと無かれ。人に施しては慎みて念うこと勿かれ、施しを受けては慎みて忘るること勿かれ。世誉は慕うに足らず、唯だ仁のみを紀綱と為せ。(後漢崔瑗の「座右銘」より)
2.人間関係を円満に保つ基本
人を悪く思えばきりが無く、人を悪く言えばきりが無い。自分のことを棚に上げて、まるで自分の身代わりのように、人を悪く思ったり、人を悪く言うのは、もうやめようと、心から思います。
3.相手を悪く思い、悪く言えば、その分そのまま自分に返ってくる
相手の欠点が見える、相手の至らなさが目につきやすいのは、自分にも心あたりがあるからだろう。相手の不用意や無配慮が気になるのは、自分も相手に同じようなことをしているせいかも知れない。
<追記事項20221014>
メンタルヘルスの見地からは「自己肯定感」の回復ということが良く言われると思います。「自己肯定感」は人間にとっての基本的な存立に関わる感覚だろうと思います。「自己否定感」が「自己肯定感」を常に打ち負かすようでは存立が危うい…。
いわゆる「心理的安全性」ということも、職場や対人関係においてときとして「自己否定感」に苛まれることがあるとしても、自己存立に必要な最低限度の「自己肯定感」を何とか保てるような対人的な関係や環境のことを言うのだろうと思います。
しかし、「変化」も「成長」も、「肯定」と「否定」が入れ代わり立ち代わりしながら、その人の主導権を相争うようにしながら、その人を「変化」させ、「成長」させていくものだろうと思います。
これは例えば部下(他者)を指導し、成長を支援する立場で考えても同じことで、それは「他者肯定」と「他者否定」のバランスを失してはならない(「他者否定」で「他者肯定」を破壊してしまってはならない)ということだろうと思います。
1.自己肯定は人間の本性
人間の欲求および動機付け要因の根底には「自己生存」「自己保全」「自己尊厳」、総じて「自己肯定」の欲求が強固に横たわっており、これを自他から否定されることに対して強く反発するものであるように思います。
特に幼少期の育成においては周囲がその子の「自己肯定」感を健全に育てることがきわめて重要であり、成人においても安定においても「自己肯定」感を健全に保つことが精神的な健康の基礎であるように思います。
そしてもちろん、相互の「自己肯定」感を損なわないこと、つまり「他者肯定」と「自己肯定」を同時に保つことこそが、良好な人間関係を保つうえでの最も重要な基礎であることは言うまでもありません。
2.他者肯定は人間関係の基本
個人間でも上司-部下間でも、労使間でも、国家間でも、「争い(不和)」は相手のそれ(「他者肯定(他者の正しさ)」)を無視・否定して「自己肯定(自己の正しさ)」を押し通そうとするから起きるのです。
凶悪な犯罪の場合でもない限り人間どうしの関係において「正が悪を打ち滅ぼして勝利する」などということは現実にはあり得ず、人間どうしの争いは「和解(互譲して争いを止める)」こと以外には「解決」しません。
つまり、「正義は常に相対的」であり、「共通的な正義」はあり得ても「一方にのみ絶対的な正義」などあり得ない。「他者肯定&自己肯定」以外に人間どうしの「問題」は「解決」しない、と筆者は信じます。
* 他者を否定することによっては何も解決しない。
* 他者に不満をぶつけ、他者を攻撃しても何の解決にもならない。
* 他者を否定することによって自己を肯定しようとしてはならない。
* ただし自己を否定しすぎないように気をつけなければならない。
* 他者肯定と自己肯定を同時に実現すること以外に解決はない。
3.「問題職員」の「問題」を解く鍵は「自己肯定&他者肯定」
いわゆる「問題職員」の問題は、本人自身が、具体的な場面や状況で、自分のどのような感情や発想や思考や行動や態度や反応が、相手や周囲の人間にとって、なぜ「問題」となるのかについて「自己認識」を高める必要があります。
また、「問題職員」自身が、「自己否定&他者否定」という「二重の否定」に陥っている場合があるので、先ずはカウンセリングとコーチングのスキルよって、少なくとも「自己肯定」の感覚を取り戻させてあげる必要があります
相手や周囲の人間が「問題職員」に対して、否定的ではなく、一旦(一歩退いて)肯定的に受け止め、本人の「自己肯定」感を回復させ、同時に「他者肯定」の意識を持つように導けば、「問題職員」の「問題」は必ず解決します。
4.「不満のマネジメント」の鍵も「自己肯定&他者肯定」
職員の「不満」は正面から受け止めるべきで、無視も回避もしてはならないと思います。正面から受け止め、回答し、改善に取り組むべきです。「満足度調査」は毎年または隔年で、定期的に行い、その経年変化に注目すべきです。
但し、「不満」の中には匿名性に隠れた「他者否定」的な、無責任で心ない「誹謗」や「攻撃」に類するコメントもあるでしょうから、その点は真(ま)に受けすぎて、調査する側が「自己否定」に陥らないように注意が必要です。
また、「不満」の中に「他者否定(他者に対する不満)」だけでなく、「自己否定(自己に対する不満)」が隠れている場合があり「他者否定」の側面にだけ注目せず、先ずは「自己否定」を「自己肯定」に導く働きかけが必要です。
さらにまた、「満足度」の状況は「意欲度」の状況と併せて経過観察する必要があります。不満要因を改善して「満足度」を高めることは大事ですが、それ以上に「意欲度」を高めることのほうがもっと大事で有効です。
「不満」は、「自己否定」または「他者否定」から生じますので、「自己否定」が原因になっている場合は先ずそれを「回復」すること、同時に「意欲度」を高め、「他者肯定」を引き出すことによって「解決」すべきです。