20220905記
稲盛和夫氏の言葉の中で筆者が最も大事にしている言葉のひとつは「利他の人」という言葉です。これは「人のための人であれ」という教えにも通じ、「人はこの世に人としての修行に来ただけ」という稲盛氏自身の言葉に通じます。
筆者はこれを「公の人、私の人」という自分なりの言葉に翻訳して理解し、指針としているつもりです。つまり、人として「公を重んじる人(利他の人)」であるか「私を重んじる人(利己の人)」であるかをよくよく弁えよという自戒として…
筆者は企業の「総務」や「人事」の仕事に長らく携わってきましたが、「総務」の「総」という字は「公の心をつむぐ糸」と書き、「人事」は「人(かけがえのないひとりひとりのたいせつな人)にかわかる事」なのだなあとしみじみ思います。
また、人事労務に携わる中で、いろんな人たちから依頼や相談を受けることが多いのですが、その度に、その人が「公の心」でものを考え、言っているのか、「私の心」でものを考え、言っているのかを対応上の判断基準のひとつにしています。
<追記事項>
人間が本源的に「利他」の存在なのか、それとも「利己」の存在なのか…は、そこが「修養」なのかも知れませんが、筆者自身は本源的に、極限の事態においてさえ、「利他」と「利己」に「分かれる」し、「いずれにもなり得る」ように思います。
例えば航空機の事故に遭遇して自己の生命が危機に瀕した場合においてさえ、人を蹴落としてでも自己の生命を維持しようとする人がいる(大多数)一方で、他者の(特に弱者の)生命を守るために自分を投げ出せる人が(ごく少数)いる。
それは必ずしも人間の後天的な「修養」によるものではなく、人間(生物?)の先天的な(人間(生物?)の脳の一部に遺伝的に引き継がれている)要素のひとつである(そうでなければ人類(生物?)は今まで存続できなかった)ように思います。
それがどちらに発揮されるかは、それぞれの個体の「資質」による。また人間の場合は後天的な「学習」や、「意思」や、ときどきの状況に応じた「判断」による、と思います。
言い換えれば「利己だけの人」や「利他だけの人」は居ない。「利己的だ」と言ってその人を否定したり切り捨てたりしてはならず、その人に本源的に備わっているはずの「利他」を引き出すことをしなければ、問題は解決しないと思います。