20251126 記
資本主義社会は利己の社会だと思います。しかしその中にでさえ、利他の精神が宿っている。社会主義社会は利他の社会の実現であったはずです。しかしその根底に利己の精神が宿っているかぎり失敗するのだと思います。
組織の原理、組織的協働の原理は…もちろん利他主義だと思います。組織のトップやリーダーやメンバーが利己的な言動を選択するときから、組織的協働体が崩れはじめるのだと思います。
20230828 記
1.「人」の天性は「利己的」であり同時に「利他的」でもあると思う。
例えば「利他の人と利己の人」というように、およそ「人(人間)」はそう単純に二分化できるような存在ではないでしょう。
それよりも「人(人間)」の中には、利他的な本性と、利己的な本性が、ともに備わっている、と考えるべきでしょう。
利己的であると同時に利他的であることこそ、人間の本質であり、天性なのかも知れません。人間にとっては「あなたはわたし」だと思います。
あとはその場その場、その人その人、その時その時で、利己的な発想や言動や態度を選択するか、利他的な発想や言動や態度を選択するか、の違いです。
2.「公の人」と「私の人」
稲盛和夫氏の言葉の中で筆者が最も大事にしている言葉のひとつは「利他の人」という言葉です。「人はこの世に人としての修行に来ただけ」も稲盛氏の言葉です。
私はこれを「公の人、私の人」という言葉に置き変えて理解しています。人として「公を重んじる人(利他の人)」であるか「私を重んじる人(利己の人)」であるか…。
ところで「総務」の「総」という字は「公の心をつむぐ糸」であり、「人事」は「かけがえのないひとりひとりのたいせつな人にかわかる事」なのだなあとしみじみ思います。
3.「利他的」にふるまうことができる人
航空機事故に遭遇して自己の生命が危機に瀕した場合においてさえ、人を蹴落として自己を維持しようとする人もいて、人のために自分を投げ出せる人がいます。
それは必ずしも人間の後天性ではなく、人間の先天性のひとつである(そうでなければ人は今まで存続できなかった)ように思います。
それがどちらに発揮されるかは、それぞれの個体の「資質」や後天的な「学習」や、「意思」や、ときどきの状況に応じた「判断」による、と思います。
私自身は、きわめて卑小な「利己の人」にすぎないと自覚・反省します。結局「自分がかわいい」ほうが先に立ち、「自分が得をする」「自分が楽をする」ほうが好きです。
それでもできるかぎり「相手にとっての幸せが同時に自分にとっての幸せであるような幸せ」を「人間らしい幸せ」として追求しようと、心がけているつもりです。
たとえば経済学は、どちらかというと「利己的にふるまう人」をモデルにしているように思います。それぞれの全く利己的な選択がまるで自然現象のように…
4.自分の手間を惜しまず、相手の手間を惜しむ
自分の忙しさのあまり、相手への視点を失ってしまうのでしょうか。または「気付かない」のでしょうか。「自分本位の怠け者」で相手の手間より自分の手間が惜しいだけ…?
コミュニケーションの要諦のひとつは、そのときどきの「ほんのひと言」であり、チームワークの要諦は、相手や仲間のための「ほんのひと手間」だと思います。
5.人間はいったいどこまで「利己的」なのか…
私は働く若い人たちが、安易に「自己実現」という言葉を用いるのが不安で不満です。企業によっては「やりがい搾取」「自己実現搾取」の絶好の機会に映るでしょう。
「自己実現」という言葉は、マズローの引用だと思うのですが、彼自身は、「自己実現する人」として「60歳以上の、人間的にも社会的にも成熟した人」を想定したそうです。
「自己肯定感」という言葉も心配です。「他者肯定」のない「自己肯定」は、単なる「利己主義」ではないでしょうか…。
「親和の欲求」も「相互親和」なら分かるのですが、それが「自己親和」という意味なら心配です。
私は「人間ってどこまで自己中心なのか?」「人間にとって生存さえ自己単独では成り立つはずが無いのに自己実現が自己単独で成り立つはずがない」と思います。
マズローの所説は「個人」や「自己」が絶対的な前提にされているようです。例えば「親和の欲求」も「自己親和の欲求」と読み替えれば納得が行きます。