1.疎外された労働
近代民法における「労働(雇用)」契約の定義は、「労務に服して賃金を得る」ことなのですが、筆者はこれほど、近代資本制下での「労働(雇用)」や「従属労働」の本質を言い当てた言葉は他にないと思います。
それは単に近代民法での「雇用労働(賃労働)」という契約形態や労働形態のことを言うに過ぎないのですが、近現代に生きるわれわれの大多数がこうした「雇用労働(賃労働)」に服していることの意味はきわめて重大です。
筆者には、人間や社会にとっての「労働(「働く」ということ)」の意味が、資本の下での「雇用労働」や「従属労働」に留まって良いなどとは全く思えません。それは社会の発展段階の問題としても、個人の成長段階の問題としても。
それは人間や社会にとって、単に経済的な財や便益に留まらない、もっと「人間的な諸価値」を実現するための「人間相互の社会的協働」であるはずです。人間にとって「労働」が単に「労務に服して賃金を得る」ことで終わってはならないと思います。
<マルクス「経済学哲学草稿」(岩波文庫)より>
労働の疎外は、第一に、労働が労働者にとって外的であること、すなわち、労働が労働の本質に属していないこと、そのため彼は自分の労働において肯定されないで、かえって否定され、幸福と感ぜずに不幸と感じ、自由な肉体的および精神的エネルギーがまったく発展せず、かえって彼の肉体は消耗し、彼の精神は荒廃するということである。
だから労働者は、労働の外部ではじめて自己のもとにあると感じ、そして労働の中では自己の外にあると感ずる。彼の労働は自発的なものではなく、強いられたもの、強制労働である。したがって、労働は欲求を満足させるものではなく、労働以外のところで欲求を満足させるための手段にすぎない。
2.人間らしい労働
上記のような「疎外された労働」に対置されるべき労働とは、ひと言で言うなら「人間らしい労働」ということなのだろうと思います。では「人間らしい労働」とはどのようなものなのか…
1)苦役や強制や隷属でないこと
たとえそれが意に反した苦役や強制や隷従であっても。そうでなければ「生存」を諦めなければならないという意味での「労働」。もちろんそこから脱することが「人間らしい労働」に向けての第一歩であるという意味において。
2)労働(または労働力)をその主体から切り離し、売り渡すものではないこと
労働(または労働力)を、あたかもひとつの商品のように労働者が自分自身から「切り離し」て資本に「売り渡す」ことが近代資本制以来の「労働」であるとするなら、そこから脱すること。労働(または労働力)は、労働者の生命および人格の活動だから。
3)人間や社会の価値を実現するものであること
例えば「平和・自由・幸福」や「真・善・美」という価値の実現のために働く人たちは数多く、その恩恵は多大です。働く人にとっての価値が同時に人や社会の価値であるような労働。
4)人間や社会の成長につながっていること
個人について見れば例えば労働の質や能力の向上、自律性や自立性の獲得、労働によって実現される価値の増大。併せて職業人・社会人としての精神性や人格性の向上。組織的・社会的な協働性の高度化。
5)働く人たちの社会的協働であること
お互いに切り離された作業としての分業でなく、ひとりの最適なOUTPUTがもうひとりの最適なINPUTとなって連鎖しあうような協業。組織や社会の価値を実現する力として繋がりあい支えあうような協業。個人の労働が社会の価値として実現されるような協働。
3.時短と賃上げがより人間的な労働につながるのか?
労働が、「労務に服して賃金を得る労働」や「疎外された労働」や「雇用労働(賃労働)」に留まるなら、人や社会にとってより少ない時間のより高い賃金の労働が、より人間的な労働につながるでしょう。機械化・自動化による省力化や無人化も然り。
人や社会がそうした疎外労働を免れ、その免れた分の肉体的・精神的エネルギーを、より人間らしい労働(より人間らしくあるための価値の実現)により多く費やすことができるなら…。