20220606 記
1.疎外された労働
近代民法における「労働(雇用)」契約の定義は、「労務に服して賃金を得る」ことなのですが、筆者はこれほど、近代資本制下での「労働(雇用)」や「従属労働」の本質を言い当てた言葉は他にないと思います。
それは単に近代民法での「雇用労働(賃労働)」という契約形態や労働形態のことを言うに過ぎないのですが、近現代に生きるわれわれの大多数がこうした「雇用労働(賃労働)」に服していることの意味はきわめて重大です。
筆者には、人間や社会にとっての「労働(「働く」ということ)」の意味が、資本の下での「雇用労働」や「従属労働」に留まって良いなどとは全く思えません。それは社会の発展段階の問題としても、個人の成長段階の問題としても。
それは人間や社会にとって、単に経済的な財や便益に留まらない、もっと「人間的な諸価値」を実現するための「人間相互の社会的協働」であるはずです。人間にとって「労働」が単に「労務に服して賃金を得る」ことで終わってはならないと思います。
<マルクス「経済学哲学草稿」(岩波文庫)より>
労働の疎外は、第一に、労働が労働者にとって外的であること、すなわち、労働が労働の本質に属していないこと、そのため彼は自分の労働において肯定されないで、かえって否定され、幸福と感ぜずに不幸と感じ、自由な肉体的および精神的エネルギーがまったく発展せず、かえって彼の肉体は消耗し、彼の精神は荒廃するということである。
だから労働者は、労働の外部ではじめて自己のもとにあると感じ、そして労働の中では自己の外にあると感ずる。彼の労働は自発的なものではなく、強いられたもの、強制労働である。したがって、労働は欲求を満足させるものではなく、労働以外のところで欲求を満足させるための手段にすぎない。
2.人間らしい労働
上記のような「疎外された労働」に対置されるべき労働とは、ひと言で言うなら「人間らしい労働」ということなのだろうと思います。では「人間らしい労働」とはどのようなものなのか…
1)苦役や強制や隷属でないこと
たとえそれが意に反した苦役や強制や隷従であっても。そうでなければ「生存」を諦めなければならないという意味での「労働」。もちろんそこから脱することが「人間らしい労働」に向けての第一歩であるという意味において。
2)労働(または労働力)をその主体から切り離し、売り渡すものではないこと
労働(または労働力)を、あたかもひとつの商品のように労働者が自分自身から「切り離し」て資本に「売り渡す」ことが近代資本制以来の「労働」であるとするなら、そこから脱すること。労働(または労働力)は、労働者の生命および人格の活動だから。
3)人間や社会の価値を実現するものであること
例えば「平和・自由・幸福」や「真・善・美」という価値の実現のために働く人たちは数多く、その恩恵は多大です。働く人にとっての価値が同時に人や社会の価値であるような労働。
4)人間や社会の成長につながっていること
個人について見れば例えば労働の質や能力の向上、自律性や自立性の獲得、労働によって実現される価値の増大。併せて職業人・社会人としての精神性や人格性の向上。組織的・社会的な協働性の高度化。
5)働く人たちの社会的協働であること
お互いに切り離された作業としての分業でなく、ひとりの最適なOUTPUTがもうひとりの最適なINPUTとなって連鎖しあい、組織や社会の価値を実現する力として繋がりあい支えあい、個人の労働が社会の価値として実現されるような協働。
<医師には「働き過ぎ改革」、看護職には「休み方改革」を >
1_少なくとも病棟勤務の看護職の典型的で原則的な「働き方」は「24時間365時 間の交替制勤務」です。(これに対して医師の場合、極端に言えば「24時間365日の 非交替制勤務」であることに本質的な問題があります。)
2_こうした典型的で原則的(かつ一般的)な働き方自体をそっくり「改革」すること無し には「働き方改革」が実現不能だとしたら、おそらく今後医療技術が革命的な省人化を 実現しないかぎり実現不可能です。
3_看護職の「退職に結びつきやすい不満」の中に「勤務(特に夜勤)がつらい」 「思うように休みが取れない」というものがありますが、そもそもこうした「不満」は看護職の「働き方」そのものを変革しないかぎり解決不能です。
4_より根本的な解決策のひとつは「医師や看護師を増やす」ことですが、それは 単に採用数を増やすことでなく、「退職数を減らす」(退職させてはいけない人に退職以外の『解』を選択してもらう)努力をするほうがより有効です。
5_看護職の退職率や、母性保護・子育支援にかかる不就業率、年次有給休暇の目標取得率等々を看護職の採用計画や配置計画や勤務予定に組み込むこ と、つまり看護職には「休み方改革」(計画的な休み方)が解決策のひとつです。
6_一方、医師には「働きすぎ改革」が必要です。どんな例外的な状況があっても医師に月 間100時間以上の時間外勤務をさせてはなりません。それを遵守するには、診療制限以外には、「医師の定着と確保」に努める以外にありません。
<追記事項:「働きすぎ」の生物学的考察>
「働きアリ」や「働きバチ」の世界にも「働きすぎ」があるのでしょうか…。生物の場合は「食う」ことと「働く」ことがほぼ同義であって、アリやハチは、決して「働きすぎ」=「食いすぎ」にはならないだろうと思います。
もしアリやハチが「働きすぎ」てしまったら、そのアリやハチやそのコロニーは滅んでしまうような気がします。「働きすぎ」が一番怖いのは、「働きすぎて働けなくなってしまう」ことだと思います。
<組織に依存しない働き方改革>
多くの働く人たちにとって「働く」ということの意味は、「労務に服して賃金を得る」という近代資本制のもとでの「賃労働」を超えるものではないように思います。もちろん筆者はそのこと自体を否定するつもりはないのですが…。
自分自身の「生き方」「働き方」を考える場合に「労務に服して賃金を得る」という働き方に留まることが「働き方改革」だとは到底思えないし、「組織」や「指揮命令(他律)に服して」賃金を得ることが限界だとは全く思えません。
むしろ、労務に服し、組織に服し、他律に服することから脱却しようとすることこそが「生き方」と同じレベルで言う「働き方」改革のエネルギー源ではないかと思うのです。もっと自律的に、もっと人間らしく働こうとすること…。
それに連れて、実は働く人たちの「組織」のあり方も変わってくる。もっと自律的・人間的・社会的な働き方や、そうした働く人たちや、ともに生きるひとたちのコミュニティーの創生こそが「働き方改革」の本質だと思うのです。