20170224 記
1.「仕事」を「作業」で終わらせてはならない。
「作業」はそれとして完遂しなければならないが、それで事足れり、と思ってはならない。大事なのはその先にある「解決」である。相手が困っているならその「解決」、相手が欲しているならその「満足」が仕事の「結果」です。
実務で「あの人はしょせん評論家だ」という言葉で揶揄されるのは、結果にコミットせず、何の解決ももたらさない一般論やべき論だけの言動や態度であり、そうした「評論家」よりも実直な「作業者」のほうがずっと良いのですが…
「仕事」を「作業」と思わず、それで終わらせないでほしい。「仕事」はもっと社会的・人間的な目的の追求であり、価値の実現であり、課題の解決です。「作業」としての仕事は、その前提あるいは手段としてあるのみです。
2.例えば「給与計算」という仕事について…
給与計算という仕事は、その人の基本給などのマスターデータに、日々の勤怠や控除や手当などのトランザクションデータをぶつけて給与額を計算するという「仕事」ですが、もちろん「作業」としての正確性と適時性が生命です。
つまり、あたかも水道栓をひねればそれだけの質と量の水道水を、いつでもどこでも正確かつ適時に供給することこそが「作業」としての「仕事」の第一義であり、それなしにはいかなる「仕事」も成り立たないでしょう。
しかしそこに、例えば「賃金支払い五原則」をいかなる場合もこれを維持実現しようという「目的」意識を持ったとたん、給与計算という「仕事」は「作業」としてのレベルを超えて「解決」の領域に一歩踏み込むことになります。
3.現実にある三つの仕事の習慣
① 作業主義的な仕事の習慣
… 「仕事」を「解」にまで深めず・高めず・究めない態度・思考・習慣
② アリバイ作りの仕事の習慣
… 瑣末で非本質的なことに嘴を入れて「仕事」をしている
③ 責任転嫁的な仕事の習慣
… できない・上手く行かない理由を自分の努力や工夫の外に見出す
上記のような仕事上の態度や思考や習慣は、筆者自身の中にも見え隠れしています。「できれば作業で終わらせたい」「仕事をしたことにしておきたい」「上手くいかないのは人のせい」にしたいと思うのが人の心の陥穽でしょうか。