20160507_人間の天性_人間は既に知っている

 

1.初期マルクスが言った「人間の天性」

 

 いわゆる「初期マルクス」の著作の中には「人間の天性」という言葉が登場し、例えば「職業の選択」という小論の中で「・・・同時代の人々の幸福のために働くときのみ、自己の完成を達成しうるようにできている・・・」と記述されています。

 

 「人々の幸福が同時に自分の幸福であるような生き方ができる」ということこそ、おそらく「人間の天性」として人間自身が「先天的に知っている」ことのひとつであるように思います。「職業」とは本来そうした人間的な幸福を実現する営みであるはずなのです。

 

 ところが近代以降、いわゆる「賃労働」すなわち「労務に服して賃金を得る」ことが主な職業の選択肢となって現われているところに、人間の社会的・歴史的・法則的な発展段階の制約があるということが、のちのマルクスが言いたかったことなのでしょう。

 

2.人間の天性が「神」を創造した

 

 また、フォイエルバッハは「神が人間を創ったのではなく、人間が神を創ったのだ」と言いましたが、これも「人間の天性」を高らかに謳った言葉であるように思います。異論があるでしょうが「神は人間の天性のうちに存在する。」と言い換えてもいいはずです。

 

 歴史とは(人間の社会的成長や発展とは)、マルクスが言った「人間の天性」や、フォイエルバッハが言った「人間が創造した神」を、人間社会の現実の中に獲得しようとする永遠の「闘い(試行錯誤と悪戦苦闘)」であるように思います。

 

 言い換えれば、いつの時代でも、人間自身は常に「人間らしさ(ヒューマニズム)」を自覚し、それを人間社会の現実の中に獲得しようとしてきたし、それが社会の進歩であり歴史の進展であり、人間の成長であったはずです。

 

3.いつの時代でも人間は「人間らしさ」を追い求めてきた 

 

 では、いったい「人間らしさ(ヒューマニズム)」とは何か。異論を怖れずに言えば、それは「他の人間(=人類)の幸福が同時に自分の幸福であるような生き方が出来ること」だと、筆者は思います。それがマルクスの言う「人間の類的本質」であると思います。

 

 顧みればわれわれは幼いころから「人に秀でること(人に抜きんでること)」が「良いこと」であるかのように学習してきまし、たとえば「一等賞をとって賞金を独り占めする」ことにほとんど何の遠慮も感じなかったように思います。

 

 しかし、それらはいわゆる「学習」や「ゲーム」の中での話であったにせよ、いま思えば必ずしも「人間らしさ(ヒューマニズム)」=「他の人間(=人類)の幸福が同時に自分の幸福であるような生き方」には繋がらないような気がします。 

 

<Imagine 想像してごらん>

 想像してごらん

 あなたの愛する人々の幸福があなた自身の幸福であることを

 それなら簡単に想像できるでしょう。

 では想像してごらん。

 全ての人々の幸福があなた自身の幸福であることを。

 あなたは全ての人々の幸福を祈っているし、

 全ての人々はあなたの幸福を祈っている。

 それは決して矛盾でも不可能でもないはずだ。

 行うことが出来ないときは、

 祈るだけでもいい。

 

4.教えられなくても新人は既に知っている

 

 新人向けセミナーで、「仕事を進める上で最も大事なことは何か?」と問うてみたところ、返ってきた第一声は、見事に「コミュニケーション」でした。第二声も見事に(期待通り)「協調性」というキーワードであり、第三声はなんと「思いやり」でした!!

 

 新人職員には何度も紹介しますが、ある部下が筆者に対して「自分自身が成長する、ということが自分にとって最大の動機付けです。」と言い、別の部下が、「仕事が出来るようになる、というだけでなく、人間的にも成長したい。」と言いました。

 

 いつもながらに感心するのですが、ことさらにセミナーで教えなくても「彼らは既に知っている」のです。少なくとも企業人対象のセミナーで行うべきことは彼らが知っていることを引き出すことと、そうはさせない諸現実との「闘い型」です。

 

5.その時代・時代で、人間はヒューマニズムのために闘ってきた

 

 …ひろく人間の有史以来の社会的な成長や発展の経緯に目を転じてみても、たとえそれが古代社会や封建社会という段階での成長や発展の歴史であったとしても、その時代・時代で人々が「知っていた」し、そのために「闘った」ものであるように思います。

 

 それはひと言でいえばそれぞれの時代の「ヒューマニズム(=人間らしさ)」です。この「ヒューマニズム(人間らしさ)」こそが人間の成長の原動力であり、それぞれの歴史的段階での社会の発展の原動力であったはずです。

  

 但し、それぞれの時代で、「ヒューマニズム(=人間らしさ)」を代表するもの、推進する主体が違った。封建身分制社会から近代資本制社会への転換期には、おそらく近代資本制の自由や平等が「ヒューマニズム(=人間らしさ)」の旗手であったはずです。

 

6.「働くこと」が最も「人間らしい」と言える社会を

 

 それぞれの時代で、「ヒューマニズム」を獲得するために、多くの人たちが「闘ってきた」と言うよりは「働いてきた」と言い換えたほうがいいのかも知れません。「働くこと」が自分自身に「ヒューマニズム」を「取り戻す」唯一の手段であるように思います。

 

 さて、では、現代社会を生きる我々にとって、「働くこと(=労働)」が「ヒューマニズム(=人間らしさ)」の主たる担い手たりえているでしょうか。本来そうであるべきだ(そうでなくていったいどうする!)と、筆者は思います。

 

 「働くこと」は本質的にもっともっと「人間的」であるはずです。「働くこと」自体が、ほとんどすべての「働く人々」にとって共通で主要な「ヒューマニズム(=人間らしさ)」の担い手であるような社会が来ることを、筆者は心から願っています。