1.初期マルクスが言った「人間の天性」
「初期マルクス」の著作の中には「人間の天性」という言葉が登場し、例えば「職業の選択」という小論には「…同時代の人々の幸福のために働くときのみ、自己の完成を達成しうるようにできている…」と記述されています。
<参考> 「職業選択にさいしての一青年の考察」(カール・マルクス)
人間の本性というものは、彼が自分と同世代の人々の完成のため、その人々の幸福ために働くときにのみ、自己の完成を達成しうるようにできているのである。
われわれが人類のために最も多く働くことのできる地位を選んだとき、重荷もわれわれを屈服させることはできないであろう。なぜなら、その重荷は万人のための犠牲にすぎないからである。
またそのとき、われわれは、貧弱で局限された利己主義的な喜びを味わうも
のではない。そうではなくて、われわれの幸福は数百万人の人々のものでありわれわれの行為は、静かに、しかし永遠に働きながら生きつづけるのである。
「人々の幸福が同時に自分の幸福であるような生き方」こそ、「人間の天性」として人間自身が「先天的に知っている」ことのひとつだと思います。「職業」とは本来そうした人間的な幸福を実現する営みだと思います。
ところが近代以降、「賃労働(労務に服して賃金を得ること)」が主な職業の選択肢となっているところに、人間の社会的・歴史的・法則的な発展段階の制約があるということが、のちのマルクスが言いたかったことなのでしょう。
2.人間の天性が「神」を創造した
また、フォイエルバッハは「神が人間を創ったのではなく、人間が神を創ったのだ」と言いましたが、これも「人間の天性」を謳った言葉だと思います。「神は人間の天性のうちに存在する。」と言い換えてもいいはずです。
歴史(人間の社会的成長や発展)とは、マルクスの「人間の天性」や、フォイエルバッハの「人間が創造した神」を、人間社会の現実の中に獲得しようとする永遠の「闘い(試行錯誤と悪戦苦闘)」であるように思います。
言い換えれば、いつの時代でも、人間自身は常に「人間らしさ(ヒューマニズム)」を自覚し、それを人間社会の現実の中に獲得しようとしてきたし、それが社会の進歩であり歴史の進展であり、人間の成長であったはずです。
3.いつの時代でも人間は「人間らしさ」を追い求めてきた
では、いったい「人間らしさ(ヒューマニズム)」とは何か。それは「人類の幸福が同時に自分の幸福であるような生き方が出来ること」だと、筆者は思います。それがマルクスの言う「人間の類的本質」であると思います。
われわれは幼いころから「人に秀でること(人に抜きんでること)」が「良いこと」であるかのように学習してきまし、たとえば「一等賞をとって賞金を独り占めする」ことにほとんど何の遠慮も感じなかったように思います。
しかし、それらはいわゆる「学習」や「ゲーム」の中での話であったにせよ、いま思えば必ずしも「人間らしさ(ヒューマニズム)」=「人類の幸福が同時に自分の幸福であるような生き方」には繋がらないような気がします。
<Imagine 想像してごらん>
想像してごらん
あなたの愛する人々の幸福があなた自身の幸福であることを
それなら簡単に想像できるでしょう。
では想像してごらん。
全ての人々の幸福があなた自身の幸福であることを。
あなたは全ての人々の幸福を祈っているし、
全ての人々はあなたの幸福を祈っている。
それは決して矛盾でも不可能でもないはずだ。
行うことが出来ないときは、
祈るだけでもいい。
4.教えられなくても新人は既に知っている
新人向けセミナーで、「仕事を進める上で最も大事なことは何か?」と問うてみたら、返ってきた第一声は、「コミュニケーション」でした。第二声も見事に「協調性」、第三声はなんと「思いやり」でした!!
ある部下が筆者に対して「自分自身が成長する、ということが自分にとって最大の動機付けです。」と言い、別の部下が、「仕事が出来るようになる、というだけでなく、人間的にも成長したい。」と言いました。
いつも感心しますが、ことさらにセミナーで教えなくても「彼らは既に知っている」のです。少なくとも企業人対象のセミナーで行うべきことは彼らが知っていることを引き出すことと、そうはさせない諸現実との「闘い方」です。
5.その時代・時代で、人間はヒューマニズムの実現のために「闘って」きた
人間の有史以来の社会的な成長や発展の経緯に目を転じれば、それが古代社会や封建社会という段階での成長や発展の歴史であったとしても、その時代・時代で人々が知っていたし、そのために闘ってきたものだと思います。
ひと言でいえばそれぞれの時代の「ヒューマニズム(=人間らしさ)」です。この「ヒューマニズム(人間らしさ)」こそが人間の成長の原動力であり、それぞれの歴史的段階での社会の発展の原動力であったはずです。
但し、それぞれの時代で、「ヒューマニズム(=人間らしさ)」を代表するもの、その主体が違った。封建身分制社会から近代資本制社会への転換期には、おそらく近代資本制の自由や平等が「ヒューマニズム」の旗手だった…。
6.「働くこと」が最も「人間らしい」と言える社会を
それぞれの時代で「ヒューマニズム」を獲得するために、多くの人たちが「闘って」きたと言うよりは「働いて」きたと言いたい。「働くこと」が自分自身に「ヒューマニズム」を「取り戻す」唯一の手段であるように思います。
現代社会を生きる我々にとって、「働くこと(=労働)」が「ヒューマニズム(=人間らしさ)」の主たる担い手たりえているでしょうか。本来そうであるべきだ(そうでなくていったいどうする!)と、筆者は思います。
「働くこと」は本質的にもっと「人間的」であるはずです。「働くこと」自体が、ほぼすべての「働く人々」にとって共通で主要な「ヒューマニズム」の担い手であるような社会が来ることを、筆者は心から願っています。
<追記事項_20210811>
少なくとも人間が人間自身を「知り尽くす」ことができない間は、それを人間は「神」や「天」という言葉(青年マルクスの「人間の天性」という言葉)で言い表すのだろうと思います。
しかし、少なくとも筆者は、「天」が「人」とは別のところにあるとは思わず、「人」も「天」の一部であり、「神」はフォイエルバッハが言うように「人」が創造したものだと思います。
何が「正しい」か(「どうすべきか、どうあるべきか」)は、「天や神に問いかける」というスタンスが良いと思うのですが、それは、結局のところ、自他の「人」が既に知っている「人の天性」問いかけることなのだと思います。
<追記事項_20211029>
…「天与の…」という言葉があります。「人が天から与えらえた天性や本性」という意味だと思うのですが、この「天」を「歴史」という言葉に置き換えてみたらどうでしょう。
少なくとも「生物」の多くは、「生きる」こと自体に「動機付けられた」存在だと思うのですが、その中でも「人間」の多くは、「より良く生きる」ことに「歴史的に動機(方向)付けられてきた存在」だと言えないでしょうか。
生まれながら道徳律を背負ってきたわけではないが、少なくとも「生物や人類の歴史」を背負って生れ出てきたと例外なく言える。背負ってきたもののなかのから「より良き(善き)もの」を選び取って行けばいいだけのことだと…。