20240907 追記
「事実」「言葉」「論理」の重要さ…その先にあるもっと重要なことは何か?
20240905 追記
重要なのは『事実と論理と判断』です。判断や決断や選択は、客観的な事実関係をベースに、論理的かつ合理的に行わなければならない、ということです。特に多く人に影響を与えるような組織的な判断を行うときには事実と論理は必要不可欠です。
これに加えるなら『意志』でしょうか…。ウィルやパッションです。事実も分かった、論理もその通り、合理的な判断だ…その上でどうする、どうしたい、それを実行し続け、実現する強い意志や熱意です。
20240113 追記
ファクトとロジックの領域では主観や感情は一旦除外…
人間にとって主観や感情はとても重要な要素なのですが、ファクトとロジックで対話しようとしている最中に、お互いの主観や感情をダイレクトに持ち込むと、良くない結果が起きやすいと思います。
自他の主観や感情をファクトとロジックの対話の中に持ち込む場合は、その主観や感情を「客観的に(即自的でなく対自的に、直接的でなく間接的に)引用する」というスタンスが良いと思います。
20240110 追記
ファクトとロジックで解決できる範囲のこと…
法的な意味での「紛争の解決」とは、ファクトやロジックについて当事者間に「争い(認識や主張の相違)」があればファクトを提示し合い、ロジックを主張し合って公平な第三者の判断を仰ぐ…というプロセスなのでしょう。
一方、法的な意味での「和解」は、「互いに譲歩して争いを止める」と言う意味で必ずしも「ファクトとロジック」を究極まで尽くすわけではなく、両当事者が「納得」できる範囲で「ファクトとロジック」の追究の手を止めることです。
われわれが「まっ、いいか」と言うときのひとつの「諦観」です。争い合って生きて行けるのは弁護士だけであって(?)、それよりもお互いに一度しかない人生の意味を、争うことより和することで高めようということだろうと思います。
つまり、筆者が言いたいことは、一般には「ファクトとロジック」が優先されるのは、それはそれで必要なことではあるけれど、必ずも実証的・論証的な科学だけが万能の解決方法では必ずしもない、ということです。
20240107 追記
客観的に合理的な…
労働契約法(第16条)は「解雇は、客観的に合理的理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合には、その権利を濫用したものとして無効とする。」と定めています。極めて重要な条文です。
法律論でなく、一般論としても、いろんな人たちと話を進める(理解を得る、合意を得る)うえで、話の内容や方法が「客観的で合理的」であることがとても重要なことだと筆者は思います。
20220309 追記
抽象も論理も明治の文明開化以降のこと?!
いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむ…これは「事実(ファクト)」と「論理(ロジック)」というよりは「現実(うつつ)」に即した「情緒(あはれ)」なのだろうと思います。
「事実」も「抽象」も「分析」も「論理」も「選択」も…実はようやく明治時代以降のことであって、問題の理解と解決には大いに有効ではあったけれど、必ずしもそれだけで問題の全てが解決するわけではないように思います。
20210811 追記
ファクトについてでさえ「争い」や「疑い」がある…
歴史学は「一次的な史料」を何よりも尊重する学問だと思うのですが、どうも「官製」の「一次史料」は、ある意図をもって一部が消されたり、書き替えられたりする場合が多いようです…
それに、ひとりの歴史学者が把握できる史料には、当然、限度があるでしょうし、いくら史実が論理に優先すると言っても、どうしてもその歴史学者自身のロジックが前提になってしまっている面は否めないと思います。
裁判ではそのことはむしろ当然でさえあって、事実とは、両当事者間に争いの無い事実か、両当事者が立証し、裁判官が合理的な疑いを差し挟まない程度の心証を抱いた範囲でしかない…
・ 事実はそれだけではないかも知れない。
・ 事実はそうではないかも知れない。
・ ましていわんやロジックをや…
20210809 追記
ファクトとロジックと…人間性
ファクトも、ロジックも通じない議論には与しない。(与しない…相手にしない。否定も肯定も敢えてする必要もない…必要なら…必要最小限のファクトの提示と、ロジックの飛躍や矛盾を提示しさえすればそれで良い…)
しかし、そんなことより、もっと大切なことは、そのファクトやロジックの根本にあるものが、そのファクトやロジックの先にあるものが、人間性(ヒューマニティ)であるどうかという点にあると思います。
ヒューマニティ(人間性)
ロジック
ファクト
ヒューマニティ(人間性)
ただし、唯一無二で絶対的な「人間性」は無い。多元性も人間性のひとつだから。「生きる」ことを絶対的な前提にすることさえ。それを「人間性」だと「信じる」ことにおいて、ファクトもロジックも無い、のかも、知れない。
極端に言えば、1億人の人がいれば1億人分の「人間性(ヒューマニティ)」があるのかも知れない…少なくともそのひとつひとつに「耳を傾ける」のでなければ「人間性(ヒューマニティ)」なんて成り立たない…
※「人間性(ヒューマニティ)」…「正当性」と言っても良いんです。「正しい」とその人自らが信じることならそれで良い。何が「正しい」かは「絶対的」なものではなく「相対的」なものです。
20240109 追記
スピリチュアルな…?
客観性と合理性、論理の積み重ね、科学的で実証的…それらの近代~現代の「知」の在り方の「先」にあるのは、ひょっとしたら人間が古代から抱いてきた、例えば「祈り」や「信仰」や「畏れ」のような「知」ではないかと思うのです。
20240109 追記
インスピレーション?
例えば天才的な思想家や小説家がごく若いころに着想・直観したことに直接的に触れることのほうが、その後の膨大な創作物を読むよりもずっと深みがあり、インパクトが強いと感じることがあります。
極端に言えば、その思想家や小説家のその後の膨大な創作物は、ごく若いころの着想や直観(インスピレーション)を、ファクトやロジックを積み上げで、「論証」して見せてくれているだけなのかもしれないとさえ思います。
ファクトとロジックの「先」にあるものと、ファクトやロジックの「元」にあるものとは、結局、共通しているのかも知れないなと思います。例えばマルクスの青年期の思想と最晩年の思想がその例であるような気がします。
<以下原文>
1.ファクトやロジックに基づかない議論には与(くみ)しない。
筆者が「聞くに堪えない」ことは、事実(ファクト)に基づかないことや論理(ロジック)が通らないことです。たとえば、いわゆる「ディスる(事実と論理を無視した誹謗中傷の類)」ことは、その典型だと、筆者は思います。
日常生活や日常会話の中には「事実に基づかない」ことや「論理の通らない」ことのほうがむしろ多く、それでこそお互いに「成り立っている」のかも知れませんが、少なくとも人事の実務ではそうは行きません。
2.「争いのない」ファクトを積み上げる…
何が「事実」か、「事実」関係そのものに「争い」が有るか無か、もし「争い」があるならお互いに「証拠」を示し、お互いに「争い」の無い事実関係をふまえて「論理」的に議論するのが、裁判でも人事でも共通の原理です。
また、事実は断片的や部分的なもので満足してはならず、自分に有利な事実だけを取り上げ、自分に不利な事実を無視したり隠蔽したり無視したりしてはならないと思います。(裁判にも「証拠の両面性」があるし…)
3.「信頼性」と「妥当性」と「納得性」の高いロジックを繋ぎ合わせる…
争いの無い事実(ファクト)をある程度積み上げたら、次に「それをどう評価し、判断して、結論や解決や提案につなげるか」という論理(ロジック)を積み上げる(重ね合わせ、繋ぎ合わせる)ことになります。
何をどう評価・判断するかは、お互いの目的観や価値観や経験則によって違う(「共有化」しにくく「争い」が尽きない)と思いますので、その絶対的な正否を問うのでなく、相対的な信頼性と妥当性と納得性を求め合うべきです。
信頼性 … 何度考えてもそのとおり。
妥当性 … 誰に聞いてもそのとおり。
納得性 … 本人の思いもそのとおり。
4.ファクトとロジックで解けることと解けないこと
人事労務上の諸問題の多くは「ファクトとロジック」で解けます。当事者間の争いの無い事実関係に、労働諸法令の目的と価値と趣旨と内容を当てはめれば、たいていの問題は解決します。
しかし、筆者が「それだけでは解けない」と言っているのは「その先」のことです。たとえばそれは「感情」であったり、「政治」であったり、そうでなくても「理解」「納得」「共感」「協力」であったりします。
5.(参考例)人事評価におけるファクトとロジック
人事評価においても「ファクトとロジック」に基づく評価が基本だろうと思います。ただし評価者が観察しえたファクトが常に客観的で必要十分であるとは限らず、評価者によるロジックが常に偏りや誤りが無いとは限りません。
評価者や評価に対する信頼感とは、評価におけるファクトの確かさとロジックの適切さ、評価者のファクトとロジックに対する謙虚さ(自分が見誤り、考え違いをしているかも知れないという畏れ)、評価に対する謙抑性でしょう。